2015年11月23日 秋のフィールドワーク

 

曽 德深さんおおいに語る

 

 

横浜中華街の戦中・戦後

 

2015年11月23日 菜香新館にて

記録 小宮まゆみ

 

横浜中華街の重鎮である曽德深さん

 

 11月23日神奈川歴教協主催による関内~中華街のフィールドワークが行われました。当日は曇り空で寒い日でしたが、参加者15名の盛会でした。

 午後5時頃から約1時間半にわたり、横浜中華街の重鎮である曽德深さんから「横浜中華街の戦中・戦後」と題して講演をしていただきました。曽さんはご自身で作成された年表をはじめとする多くの資料を用意して、歴史的な背景をおさえた上で実体験に基づく大変興味深いお話をしてくださいました。

 その講演記録を簡単にまとめました。

 

歴史を知ることは大切

 

 皆さん今晩は。歴史というものは過去を教訓にして学び、未来を考えるために大切なものです。しかし同じ歴史でも、国によって見方や解釈が違うことが問題になります。お互いに過去の歴史について語りあうことが大切です。

 

 現在日本と中国は、お互いに相手の国を嫌いという人が80%ぐらいいるようです。しかし日本は嫌いと言っている中国人でも、日本に旅行に来ては日本製品を爆買いする。爆買いするということは日本製品を信頼していることの現れです。日本のことを知れば日本への認識も変わるのです。現代の日本製品から日本のことを知るのもいいけれど、過去の歴史から日本のことを知ることも大事です。

 

 ここで一つ資料の訂正があります。さっき小宮さんも紹介してくれた雑誌『横濱』の私の記事ですが、これは私が自分で書いたものではなく、編集長の佐藤彰芳さんが私の話したことを文章化したものです。校正をしなかったのでそのまま印刷されてしまったのですが、1か所間違いがあります。35ページの戦争中の中国人の扱いの所で、「日本が中国に傀儡政権をつくっていて、国民党なのか王政派なのか区別がつかなかったということ。」とありますが、これは「王政派」ではなく「汪精衛派」(汪兆銘派)の間違いです。汪精衛はご存じでしょうが、日本の傀儡政権の総理です。訂正してください。

 

 

なぜ中国人の抑留はなかったか

 

 日中戦争から太平洋戦争の間じゅう、日本は中国と戦争をしていましたが、中国人は「敵国人」として収容所に入れられることはありませんでした。しかし中華街全体が収容所のようなものだったといえるかもしれません。ここから出て東京などへ行く場合には、加賀町警察の許可が必要でしたから。

 日本にいた中国人が戦争中のことを書き残した記録のようなものは、あまりないと思います。少なくとも私は知りません。私は終戦時5歳でしたからほとんど覚えていません。空襲(横浜大空襲)にあったことだけは覚えています。空襲の情景と、配給でもらった木の下駄を母が大事にとっておいたのに、全部空襲で燃えてしまった。そんなことは覚えていますが。

 

 

(配布資料『横濱』49号より曽さんの空襲体験を抜粋)

 

空襲が始まった頃、母と姉ふたり、弟と私は、通りに掘った防空壕に逃げ込んだのですが、外から激しくトタンを叩かれ、「火がそこまで来ているから早く逃げろ、焼け死ぬぞ!」と声を掛けられ、中華街大通りを家族みんなで駆けて山下公園方面に逃げました。母は弟をおぶっていましたが、現在もある交番付近で、「忘れ物があるから戻る!」と言うんです。そこにいた知り合いのおじさんに「もう戻れないぞ、早く逃げろ!」と止められたのを覚えています。焼夷弾が空から落ちてくるのは見ていませんが、港の沖の方で爆弾が落ちる音でしょうか、ボン!ボン!という音が響いていました。その夜は私たち家族は焼けなかったニューグランドホテルの広間に泊まり、そばの空き地で大人たちが夜通し炊き出しをしていたのを覚えています。

 

 

 

 戦争中アメリカでは日系人が強制収容されました。アメリカ国籍のある人でも収容され問題になりました。日本にいた中国人の場合は、1859年横浜開港以来日本にやって来てここに長く暮らし、1899年から内地雑居が認められ、40年かけて居留地の柵が取れました。長い期間住みついて日本人との間に相互理解が出来ていました。そういう積み重ねがあってお互いよく分かっているからということが、収容されなかった一つの理由だと思います。

 

 またもう一つの理由として、中国に日本の傀儡政権が出来たということがあります。蔣介石の国民党政府を支持するか、傀儡政権を支持するかを中華街の中国人は腹の内に納め表には出さず、表面上は日本に従っていたのだと思います。そのため中国人の強硬な収容はありませんでした。しかし一部の人が監視されたり、特高警察に捕まるということはありました。周ピアノで有名な周さんの2代目周譲傑さんは、ピアノの部品を買い付けに上海などへ何度も渡航していたことからスパイ容疑で捕まり拷問を受けて、終戦になって釈放されるのですが、それがもとで戦後1、2年で亡くなってしまいました。これは直に聞いた話です。

 

 日本が中国を侵略している期間は、抗日のため帰還する中国人もいました。また逆に中国で政治運動をしていた孫文さんは、日本に亡命すると必ずここに来ました。孫文さんは中山県の出身なのですが、ここは中山県(現在の広東省中山市)出身者が多く、故郷のように迎え入れたのです。また孫文さんは日本の政治家との強いつながりもありました。政治家にもいろいろ思惑があるのですが、単色の敵対関係ではない、複雑な関係があったのです。

 

 

戦後の学校事件について

 

 1955年(昭和30年)に中華街大通り入り口に門(牌楼)が出来ました。私は華僑の発案で作ったと思っていたのですが、資料によると神奈川県知事が内山岩太郎さん、横浜市長が平沼亮三さんの時代で、そういう方々が当時アメリカに視察に行き、横浜中華街の復興を考えて発案したようです。建設委員長は金子光和さんという僧侶で、多くの方から寄付を集めて門が完成しました。日中合作ですが、どちらかというと日本側の旗振りで始まったことでした。

 門を「善隣門」と呼びました。「落成式慶讃文」によると、『春秋左氏伝』の中にある「親仁善隣国之宝也」という言葉から門の名前を取ったとあります。日中の長い歴史の中では不幸な時代もありましたが、これからはお互いに親しみあって発展していこうという意味です。また牌楼の額に「中華街」と書かれました。これは、自分たちは中華街と呼ばれたいという意志の表明です。それまでは唐人街とか南京町とか言われていました。戦前の中国では南京が首都だったからそう呼ばれたのでしょう。しかし南京は中国が弱い時代の首都だったので南京町と呼ばれるのをよしとせず、中華街としたのです。これが1955年のことです。

 

 実は戦争が終わった1945年から1952年までは、この街は比較的穏やかでした。ところが、1949年中華人民共和国が成立して、国民党政府が台湾に移ると、中華街も東西冷戦の影響を受けるようになりました。その当時中華学校の先生たちの多くは満州国から日本に留学に来た人でした。中華街の中華学校は1898年に開校し「大同学校」と称し、関東大震災後は「中華公立学校」と称し広東語を教えていたのですが、戦後は北京語に近い「普通話」(標準語)を教えるようになりました。また教師たちは政治に敏感で、子どもたちにも中国の革命史や日中戦争などを教えました。ところがそんな状態の学校を進駐軍の一員として台湾の国民党政権の役人が視察に来て、偏向教育をしていると問題にしたのです。

そして1952年8月1日、一団の人々が突然やって来て、夏休み中の学校をいきなり封鎖して、教師を全員学校から追い出してしまいました。私はその時小学校6年生でしたが、9月1日からの新学期に学校に入れなくなってしまったのです。横浜の華僑は大陸派と台湾派の両派に分かれることになりました。といってもほとんどの親や生徒は追い出された先生の側(大陸派)に付きました。

 

 台湾派(国民党側)は新しい校長を連れてきました。王慶仁という元軍人でした。中区の図書館に『関帝廟と中華街』という本がありますから、その本でこのあたりのことを読んでください。王慶仁は国民党の軍人で、朝鮮戦争の時マッカーサーが中国に攻め込む作戦を考えて、その案内人として日本に呼ばれて来たという人です。中国へ攻め込むことは取りやめになりましたが、その代わりに中華学校を占拠して校長になったのです。

 私たちは学校が使えないので、各華僑の家の空いた部屋を借りて教室にし、勉強を続けました。ピアノがある家では音楽の授業を受けました。子どもたちは毎朝もともと通っていた学校の校庭に集合し、体操をしたあとに行列を作って街中の各教室に向かいそこで授業を受けました。1年間それを続け、ついに山手の元町小学校の隣りの土地を購入して、自分たちの新校舎を作りました。私は中学生になっていました。対立は子どもたちにも及び、子どもたちは相手の学校へ行って石を投げ、ガラスを壊したりしました。私の経験では元の学校の運動場で遊んでいて、向こうの先生に急に殴られたこともあります。結局学校は二つに分裂したのです。

 

 日本政府は台湾の国民党による政府しか認めていなかったので、台湾の領事館はパスポートを出さないという形で圧力をかけ、台湾系中華学院に付くものを増やそうとしました。そんな対立に巻き込まれたくない金持ちは、子どもをセントジョセフ(インターナショナルスクール)に行かせました。それでセントジョセフはやたら中国人の生徒が多くなって、第3の中華学校とまで言われた時期もあります。

 

 

国共合作で関帝廟再建

 

 そんな時代を経て1972年日中共同声明が出され、中華人民共和国と日本政府が国交を正常化しました。その結果台湾政府とは断交することになりました。その年9月29日に、中華学院校長だった王慶仁は大陸系の過激な青年に襲撃され、殴られてあごの骨を折る大ケガを負いました。

 

 その後1986年のことですが、1月1日関帝廟で火災が起こり、多分お線香が原因だと思いますが、ほぼ全焼してしまいました。関帝廟のある土地は台湾系の人たちが管理していたことから、台湾系の人たちが関帝廟再建のための募金を始めました。8000万円の資金が集まりましたが、関帝廟再建にはとても足りません。そこで大陸系華僑が乗り出して、皆で一緒にやろうと神奈川新聞に大広告を出しました。

 1987年の横浜中華街発展会の賀詞交換会に王慶仁が来て、私にあの広告は本当かと聞いたので、私は本当ですと答えました。それで王慶仁は大陸系の華僑総会の会長と会って、共同して関帝廟を再建する話を始めました。それから台湾系、大陸系双方から代表を出しあい、中立系華僑7人が中心となって新しい建設委員会を作り、新たに募金活動を始めました。その結果2、3年で6億円もの募金が集まりました。だからこの関帝廟は国共合作で出来たのです。建設は清水建設に任せましたが、廟の伝統装飾や石工事は台湾と中国の両方から職人を呼びました。当時日本にはあのような中国の伝統様式の工事が出来る職人がいなかったのです。日本政府の建築許可を取るのは大変でした。また1989年には6・4天安門事件も発生して職人の来日に影響が出たり、どうなることかと心配しましたが、ついに1990年8月関帝廟が落成したのです。落成式のパーティーで、王慶仁は私を見て、「君らはおれのことを以前から『特務』(台湾側工作員)と言っているが、もうおれを華僑と認めるか?」と言ったことを覚えています。

 

 

戦後来日の中国人

 

 終戦時日本全国にいた中国人は4万5000人ぐらいでした。それが今はどのぐらいいると思いますか?

 

 統計では約70万人となっていますが、実質は100万人ぐらいです。朝鮮・韓国は60万人ぐらいで、終戦後からあまり増えていません。最近は少し減っています。それに対し、中国人は中国の改革開放政策から以降とても増えました。中国残留日本人孤児の関係者も来て、一層増えました。100万人のうち戦前からの私たちのような在日オールドカマー(老華僑)が5~6万人ですから、90%以上がニューカマー(新華僑)です。横浜中華街はもともと広東の人が多かったのですが、今は福建省の人が多いです。福建省出身の人の店は、だいたい屋号に「福」が付きます。

 

 横浜中華街には250軒ぐらいの飲食店がありますが、そのうち食べ放題の店は何軒あると思いますか?34軒です。そのうちオールドカマーの店は4~5軒で、あとはすべてニューカマーの店です。私は新聞社の取材に答えるため、お店のスタッフと一緒に中華街じゅうを回ってどこが食べ放題をやっているか調べ、6軒の食べ放題の店に行って食べてきました。そして「横浜中華街食べ放題考察」というレポートを書きました。

 

 実はオールドカマーは子どもに飲食店を継がせたくないと考えている人が多いです。たとえばお医者さんにしたいとか、だから大学に行かせる。うちの店は今70~80人の従業員を抱えていますが、父が始めた頃は家族経営でした。主人が調理場に立ち、妻がレジ、女の子はウェートレスで、男の子は皿洗いです。そのうち店が大きくなると香港や台湾からコックを呼びます。やがて大陸(中国)からもっと賃金の安い人を呼ぶ。

 

 ニューカマーの場合、ふたつの道があります。ひとつは大学卒で来たり日本の大学に留学したりして、その後はベンチャー企業を起す。私の知り合いでも山梨大学から東大の大学院に行って、医薬品検査の会社で成功した人もいます。一方中卒や高卒で来日した人は、郊外で小さなラーメン屋を始め、成功すると中華街に店を出します。中華街に入るのは出世コースなのです。

日本以外のチャイナタウンでは、本国から来てまだ言葉も出来ない人が親戚に身を寄せる、それがチャイナタウンです。そしてその後チャイナタウンから出て行くのが出世。逆に日本では中華街に入るのが出世なのです。

 

 私は中華街に悟空という中国茶の店を持っています。ある日埼玉県越谷市のショッピングセンターに、悟空という店が出ていると知人に言われました。すぐ見に行きましたが、全くうちとは関係のない店なのに、「横浜中華街の悟空」を名乗っているのです。うちの店の支店だと思って、越谷の店が配った割引券をうちに持ってくるお客さんまで出てきました。そこで行って問いただし、最後は弁護士を頼んでやっと名前を変えさせました。

ニューカマーはこのように商売の仕方でえげつない面もありますが、よく言えばハングリー精神がある。一方オールドカマーは日本文化にどっぷり漬かり、ひ弱だという面もあります。背景には時代の変化があります。

 

 

 まだ話したいことはいろいろありますが、中区図書館には『横浜華僑の記憶』という本もあります。聞いただけでは分からない点は、ぜひ本を読んでください。

 

 

質疑応答

 

問:

現在の中華学校に日本人はどのくらい来ていますか?

 

答:

今日本には学齢期の中国人が4万人ぐらいいます。それに対し中国人学校は横浜2つ、東京、大阪、神戸それぞれ1つの5か所しかありません。だから大雑把に言って4000人ぐらいしか入れないのです。従ってなるべく優先的に中国人を入れるようにしています。入りたい日本人は多いのですが、入れられないというのが現状です。それでも日本人をある程度入れて、多文化にしたいと思っています。山手中華学校には純粋な日本人家庭の子は5%ぐらいです。ただし日本国籍ということだと65%ぐらい日本国籍です。国際結婚すると大体日本人となります。またニューカマーは簡単に日本に帰化します。

 

問:

ニューカマーは故郷とのつながりが強いようですが、長く日本に住めばオールドカマーのようになるのでしょうか?

 

答:

ハワイの日系人はあまり日本人の雰囲気は持っていないようです。土地に長く住み続ければ、その国の影響は受けます。いろいろなタイプの人がいますが、やはりだんだん現地の人に似てくるのではないでしょうか。

 

問:

ユダヤ人やアラブ人も世界的に商業活動をしています。それと中国系の人との違いは何でしょうか。

 

答:

ユダヤ人はユダヤ教という宗教を通じて結束が強いといえます。宗教も文化の一部ですが、宗教の果たす役割は大きいです。ユダヤ教もイスラム教も一神教ですが、自分たち中国人は多神教です。だいたい熱心な信者ではありません。関帝廟には教祖もいません、萬珍楼の主人が主祭人の役割をしていますが、以前は仏僧にお願いして祭事を行っていました。本来は道教なので道士を呼ぶべきですが、道士といっても兼業の人が多いです。迎神の儀では爆竹を鳴らして神を呼びます。信者は神殿で豆のさやのような形のものを投げて裏表で神の意志を占うのですが、自分が期待する答えが出るまで何回でも投げていいのです。私自身は怖くて神を信じることは出来ません。関帝廟を建てる時、香港から有名な風水師を呼びました。その人は中華街で火災があった場所をピタリと言い当てました。それは怖いことです。占いも私は怖いからやりません。自分で考えたことを自分の責任でやるだけです。でも信じないけれど研究はします。宗教についての距離感は、日中とも似ているのではないでしょうか。

 

 

お礼の言葉(吉池委員長より)

 

 大変興味深いお話をありがとうございました。具体的に体験されたことと、研究されたことが次々に出て来て、私たちだけで独占するのはもったいないようなすばらしいお話でした。中華街の復興や関帝廟の再建をリードしてこられ、それを通じて平和と友好に力を注いでいらっしゃることに感銘を受けました。本当にありがとうございました。

 

 

このフィールドワークのしおり

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フィールドワーク関内中華街見学のしおり 2015.11.23 (1).pdf
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