2014年4月から9月まで、NHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』が放映されていました。志を抱いて田舎から出てきた貧しい少女花子が、翻訳家として『赤毛のアン』翻訳に至るまでの成長物語です。
HNK連続テレビ小説として、過去10年で最高の視聴率22パーセントだったそうで、ご覧になったかたも多いでしょう。
しかしこの村岡花子の夫として登場する「村岡印刷さん」という人物が、実は横浜ゆかりの人だということは意外と知られていません。
ドラマのモデル翻訳家村岡花子は山梨県出身で、東洋英和女学校で学んだ後山梨英和女学校で英語の教師をし、その後東京の出版社教文館の編集者として働くようになります。
そこで出会ったのが印刷会社の村岡儆三(けいぞう)氏。そう、朝ドラに登場する「村岡印刷さん」なのです。
このドラマに出て来る「村岡印刷」は、本当の名前を「福音印刷」と言って、明治後期から大正時代まで横浜山下町に本社があり、東京と神戸に支社を持つ大きな印刷会社でした。
創業したのは港北区小机出身の村岡平吉氏です。
村岡平吉氏は1877(明治10)年25歳で横浜山手のフランス新聞社「レコ・デュ・ジャポン」に欧文植工として入社し、アルファベット活字を素早く拾う技術を身につけます。
その後上海の上海美華書局という印刷会社で働き、帰国後は横浜製紙分社という印刷会社に勤務して、この会社が東京に移転した1898(明治31)年、機械や従業員の一部を引き継いで中区山下町に「福音印刷」を創業しました。
その一方で1883(明治16)年洗礼を受けてクリスチャンとなり、1894(明治27)年には横浜関内にある指路教会の長老に就任しました。平吉氏の方針で、福音印刷では毎朝始業前にキリスト教の礼拝が行われていたそうです。印刷物の中心は聖書や讃美歌、布教用のチラシやパンフレット類でした。
この福音印刷の東京支社(銀座)を任されたのが平吉氏の3男儆三氏です。そして福音印刷の儆三と教文館で働く花子は、1919(大正8)年に結婚しました。
義父に当たる平吉氏は英語が得意で、クリスチャンという点も花子と共通しており、嫁の花子をとても大事にしたそうです。しかし福音印刷は1923年9月の関東大震災で社屋も工場も壊滅し、大勢の従業員を亡くして倒産してしまいました。一方花子はその後も英語力を生かして通訳に翻訳に活躍し、少年少女に夢を与える多くの作品を世に出すのです。
『赤毛のアン』だけでなく、『足長おじさん』『秘密の花園』『小公女』など、村岡花子翻訳作品は、多くの女性に夢を与え人間形成にも影響を与えているのではないでしょうか。
この記事は2014年5月25日横浜市立港北図書館で行われた、日本近代文学研究家峯岸英雄氏の講演“「花子とアン」のふるさと”を聞いて書いたものです。
(神奈歴事務局M. K.)