今年の全国大会は、フィールドワーク以外のすべてのプログラムが、東北学院大学(土樋キャンパス)を会場に開催されました。東北学院大学は1886(明治19)年創立の、伝統あるキリスト教大学です。
13時から6号館講堂で、500名を越える参加者によって全体会が始まりました。
まず歴史教育者協議会委員長山田朗氏が挨拶に立ちました。そして安倍政権が強行しようとしている安保法制の問題点に触れ、「戦後70年を迎えた今日私たちが歴史から学ぶ力が問われています、日本が新たな戦前に踏み出すことを許してはならなりません」と力強く訴えました。
続いて現地実行委員長本郷弘一氏による歓迎の挨拶がありました。本郷氏は、東北が2011年の大震災・津波災害と原発災害の被災地であり、そこで求められているのは、真の人間復興と地域の生業の復興であると語りました。
基調提案は、歴史教育者協議会常任委員の小野寺克彦氏が行ないました。
2011年3月の震災・原発事故以来4年が経過しましたが、現在も24万人もの人々が仮設住宅などで避難生活を続け、3200人もの人が「震災関連死」をしています。福島は足尾、水俣と並ぶ国策の被害者である、と位置付けました。
しかし最近では震災の報道は減り、記憶は風化し、まるで震災も原発事故も無かったかのように、鹿児島県では川内原発再稼働が行われました。
宮城 / 東北大会では、被災地の現状を見て考えること、そして私たちはもう一度震災と原発について学び、子どもたちに語り継ぐ責任がある、と訴えました。
地域特別報告をしたのは、福島県浪江町の町長馬場有氏でした。そのお話は実体験者でしなければ語れない苦渋に満ちたものでした。
「浪江町は福島第1原発から約20キロ圏内にあり、ほぼ全域が帰宅困難地域となっています。震災前2万人を越えていた町の人口は、今は福島県内や県外の全国各地620の自治体にバラバラになって避難しています。
震災が起こった2011年3月11日から15日までの間、浪江町への国・県からの情報は皆無でした。
始めは放射能に取り囲まれるなか屋内退避と言われ、続いて5キロ圏から避難するように指示されました。若くて力がある人はマイカーで県外へ避難していきましたが、高齢であったり病弱であったりで脱出できない人たち1万人近くを、町が自力で脱出させました。政府はSPEEDI(スピーディ)による放射能の拡散予測を公表せず、我々は放射能のブルームが落ちて来る真っただ中を避難してしまいました。3月12日15時36分には、1号機の爆発音を聞きました。
15日やっと二本松市へ避難しました。その時から現在まで町役場は5回移転し、今は二本松市に役場機能を置いています。…」
日本国憲法に保障された、第13条幸福追求権、第25条生存権、第29条財産権、浪江町ではこれらがほぼ失われ、「日本から疎外されている状況です」と訴えました。そしてこの失われた権利を回復させるために、行政として除染を含む生活環境の整備に取り組んでいく、という決意を話されました。
しかし一方では震災から4年経ち、住民の間には本当に戻れるのか、仮設住宅にはいつまで住めるのか、月10万円の慰謝料はいつまで支給されるのか、不安は一日一日増します。それでも、今年は再開した相馬野馬追の祭りに、45名の元住民が避難先から集まって参加したそうです。
未曽有の災害と粘り強く戦い続ける馬場町長の強さに、聞いている私たちも励まされる講演でした。
上記のタイトルで記念講演をしたのは、京都大学教授岡田知弘氏でした。岡田氏は富山県の生まれで、近現代の日本地域開発政策史研究が専門です。
日本近代の歴史検証に裏付けられた講演は、まさに目から鱗が落ちるような内容でした。以下レジュメに沿って講演を簡単に紹介します。
※写真はインターネット上から流用しています
はじめに
震災4年度の被災地は、震災発生当初の47万人の避難生活者のうち23万人が避難生活を送っており、半分はまだ避難している。住宅再建の遅れが人口流出を招き、産業復興をも送らせるという悪循環が広がっている。特に三陸海岸地域と、原発事故が収束しないフクシマの状況は深刻である。
住民の命と基本的人権尊重、自然環境との共生をいかに図っていくかという課題がつきつけられている。
1.なぜ被災者の住宅・生活再建が後回しにされるのか
財界の要求から被災地の復興が「創造的復興」として、日本経済の再生にすり替えられている。
「がんばれ東北」をスローガンに、経済同友会では「道州制の先行モデル」をめざし、具体的には規制緩和、特区制度、投資減税、企業誘致をおこなうべき、農業は集団移転による大規模化・法人経営化、漁業は漁港の拠点化など大胆な構造改革を進める、などという提言をおこなっている。
しかし被災地は「東北6県」ではなく犠牲者の99.7%は宮城、岩手、福島の沿岸地域に集中している。実態とかけはなれた被災地「東北」論台頭の背景には、震災による多国籍企業の「サプライチェーン」切断、自動車部品調達停止に対する不満・問題視がある。
「創造的復興」の名の下に、復興予算の多くは企業立地補助金などとして、被災地の復興以外に流用されている。安倍政権によるオリンピック誘致やアベノミクスによる全国的公共事業の増大が、被災地での資材や人員不足をまねき、復興の遅れを加速している。
2.1930年代東北振興事業の歴史的教訓
1930年代は世界的な恐慌のなかで1931、34年の冷害大凶作、33年の三陸津波と東北の窮乏化は極まった。その際政界・財界関係者により「東北振興会」が結成され、商工業振興・インフラ整備などを陳情した。
しかしその目的は東北の生活の向上では無く、「人的・物的資源の利用開発」だった。設立された東北振興(株)には財閥資本が進出し、地元と摩擦を起こした。東北振興電力(株)が開発した電力のほとんどは、地元では使われず東京に送られた。そして多くの人口が京浜地方や満蒙に流出した。
3.「創造的復興」に対抗する「人間復興」運動の広がり
1995年の阪神大震災の復興事業でも、「創造的復興」の名の下に空港や湾岸高速道路の建設などハード整備が優先され、復興市場の9割は域外企業が受注した。一方で兵庫県では被災者運動が起こり、「人間復興」論が形成された。それは人間の生存権の復興、すなわち生活、営業、労働の機会の復興である。
2004年の中越大震災では、山古志村での地元産材を生かした復興公営住宅建設、生業の再建によって7割の住民が帰村した。
今回震災被害を受けた東北3県でも、基礎自治体と被災者・事業所主体の漁業経営再建や、県産材を活用した木造仮設住宅の建設など、自律的な復旧・復興が広がりつつある。原子力災害で深刻な被害を受けた福島県内でも、福島大学と連携した除染作業、県農民連の「地域分散型エネルギー」事業への参入など、注目しすべき取り組みが始まっている。
憲法に基づく、幸福追求権、生存権、財産権の保障を最優先にした国の復興政策が今求められている。「戦争ができる国」づくりのために、時間と予算を費やす場合ではない。
(神奈歴事務局 M.K.)