取り残された過去、閉ざされた未来
~福島県原発災害地の今~
歴史教育者協議会宮城/東北大会
現地見学 福島南コースで見て、聞いて、感じたこと
8月12日(水)
ホテル出発→いわき市久ノ浜漁港→Jヴィレジ→天神崎公園→宝鏡寺→JR常磐線いわき駅で解散
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原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員
原発事故いわき訴訟原告団団長
事故前から原発問題に取り組み、事故によってさまざまな苦悩を抱えている地元の住民だからこそ、わかる原発事故の問題を個人的なエピソードも交えながら、わかりやすくお話しいただきました。
以下の記事で「青枠の囲み」は伊東さんのお話です。
【 】の数字は、空間線量の測定値です。単位はμSv/h(マイクロ・シーベルト/時間)。
測定には、近所のスーパーで手に入れることのできた家庭用放射線測定器「AIR COUNTER_S」(エステー株式会社製、購入費用2000円)を使用しました。ガンマ線を測定し、誤差±20%です。バス車内で測定した値もあります。また1つの場所でかなり上下の変化を繰り返しているので、測定値はある瞬間の測定値ということになります。
7:00、朝食
8:30、出発
9:30、いわき市久ノ浜漁港
久ノ浜は、原発災害前は、アンコウやカツオの漁で有名なところだった。 ここで水揚げされた地場産の魚が高値で築地に出荷されて、まさに漁業で栄えていたが、現在は、試験操業でわずかばかり、形だけの操業が行われているだけで獲れた魚はいわき市小名浜に送られている。
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左:漁協の事務所が併設された建物
漁船から直接、魚をあげていた場所だが地盤沈下で1.5mぐらい下がってしまっている。
建物そのものは構造が簡単だったためか、大きなかなり形を保っている。
3月12日福島第1原発3号炉が爆発を起こした後、避難情報が誤って伝えられ、久ノ浜地区はパニック状態になった。その後、避難対象地域ではなかったことがわかってから、久ノ浜の住民には東電から見舞金として各戸に100万円が支払われた。
ところが、同じような目にあったいわき市四ツ倉地区の住民には何もなかったため、四ツ倉地区の住民と久ノ浜地区の住民との間で対立が生じてしまった。
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上記のようなお話を聞いて、もしかする地域を分断し住民の運動を阻害する手なのかと思ってしまいました。
10:00すぎ、広野町に入る
広野町には、東京電力広野火力発電所(最大出力380万kw、2013年3月現在)が所在し、その固定資産税収入で非常に裕福な自治体だそうです。
原発関係の労働者の住宅
全国から集められた、原発関係の労働者向けの住宅が数多くたてられている。住民の帰還が進まないのに、こうした労働者の人口は増えている。
広野町は、避難した住民に帰還を呼びかけているが、4割ぐらいしか戻っていない。6割が戻ってこない理由の1つとして、こうした「外来者」の増加に対して、もともとの住民が違和感というか、不安をもつようになり、それで帰還が進まないということもあるそうです。
(注:この話は、大阪で起こった中学校生徒殺害事件の前に伺った話です。事件とは関係ありません。)
10:10頃、楢葉町にはいる
双葉みらい学園の前を通過。
双葉みらい学園は、文部科学省が直々に開校した、小中一貫学校です。現在、児童生徒は、楢葉町ではなく他市町村から通学しているとのこと。
10:30、旧道の駅「ならは」でトイレ休憩
10:50、Jヴィレッジ見学 植え込みで【0.43】
かつてのサッカー関係者の聖地は、練習場を原発関係の労働者を運ぶ車の駐車場や住宅に転用され、見る影もない。
無断撮影禁止の看板が立ち、一行が結構、傍若無人に写真を撮っているとやはり、係の人が出てきてシャットアウトされてしまった。なにを隠したいのだろうか。
そもそもこの施設、電気料金で建てたわけで、東電に電気料金を支払っている「顧客」の見学はOKにすべきでしょう。
右:福島第1原発の廃炉作業に従事している作業員の宿舎練習用グランドは、このように仮設宿舎か、主に駐車場に使われている。
11:45、宝鏡寺に到着
60段の階段を上って境内へ。
本堂で昼食 【0.16】
本堂内には、さまざまな「檄文」が貼られていて、お寺の本堂と言うより市民運動のベースのよう。
昼食後、ご住職の早川篤雄さんからお話を伺った。
早川篤雄さん
福島原発避難者訴訟 原告団団長
住職を務めている宝鏡寺は、鎌倉時代から続く由緒あるお寺です。
早川さんのお話
楢葉町は、2015年9月に避難命令が解除されて住民の帰還が可能となる。宝鏡寺は、2014年11月から寺の周囲すべてを除染している。除染したところは、目安の0.23μSv/hまえになったが、しかし除染対象外の20mより遠いところは、その2~3倍となっている。 線量計を毎日、身に着けて測定している。(グラフを提示して)ずーっと線量が高いのは、楢葉町にいるとき。大きく下がっているのは、東京に行った時。 復興庁のアンケートでは、帰還希望は1割未満。特に放射線・原発への不安を持つ子育て世代は戻らない。30年後には地域は消滅するだろう。130軒ある檀家のうち、5軒が墓ごと移転し地域が消滅するところを見届ける。
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※ 汚染土を詰めたプレコンバッグの仮置き場を確保するため、国が土地を借り上げるにあたって、反対するはずの地域住民が避難しているため、地権者の同意を取りやすくなっているとか。
早川さんは自分の地所をかなり早くから仮置き場に提供したそうです。原発反対運動の先頭に立ってきた早川さんだからこそ、地元の人々の苦渋の思いに寄り添っているのです。
伊東さん
* 原発災害の被害者訴訟は全国25か所の地方裁判所で起こされているが、ただ1か所、福島地方裁判所のいわき市支部だけがお被災地域にある。しかし、裁判官は1度も現地を見に来ない。いわき支部は、現在、5件の原発関係裁判を担当している。
* 『アトムふくしま』は、東京電力のPR誌で無料配布されていた。掲載されている中学生の作文は、東電から教えられた通りの内容。「原発は危険だ」と思っていたが、「安全だ」ということがわかった、「そのことを大人にも伝えたい」。 安全神話が復活しようとしている。(安倍政権は)規制委員会がつくった審査基準が「世界最高水準」といい、その規制委員会の田中委員長は何といったかという「安全を保障するものではない」。政府も電力会社も規制委員会も責任を取る気がないだろう。
* 政府は年間20m㏜で、帰宅準備をさせようとしている。 ICRPの基準では平常時、年間1m㏜以下。ところが国は、年間20m㏜でリスクはないとして、ゆすろうとしない。 福島では、0.23μ㏜/hが除染基準として常識化している。
* 科学者の中で福島を支えている人がどれだかいるだろうか。 日本科学者会議は脱原発運動を支援している。原子力の専門家以外では、反原発が多数となっている。これまで日本の原発反対運動は、マスコミから無視されてきた。(地味な地元の反対運動よりも)より過激な活動の方が、マスコミ報道に載せられやすかった。 かつて「無らい運動」というものがあった。らい病患者の家族に密告させた。(この運動には)医師、科学者、そしてジャーナリストが参加し、らい病の「危険性」の宣伝を行った。ある研究者は、ずいぶん過激な危機演説を行い、危機感をあおったりした。
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13:45、旧道の駅「ならは」で休憩。
「ならは」を出発後、かなり強い雨が降り出す。
14:15ごろ、車窓の両側にいわき市内に建てられた原発被災者の仮設住宅が
見え始める。 【0.06】
かつて個人住宅向けに開発された「ニュータウン」に長屋形式の仮設住宅が建てられている。
メーカーによってかなり質が大きく違うそうで、建築士のチェックによると、大手のものはすべて「落第」で、結局、地元の会社が地元産の木材を使って建てたものだけが「合格」だったとか。やはり。
となりの話し声が聞こえるような環境は、特に厳しいらしい。なにしろ何世代も前から暮らしてきた方々の住宅は、敷地内に母屋以外に納屋や土蔵などがあったり、まわりを田んぼや畑で囲まれたり、ともかく広々とした空間だったのだから。それこそ江戸時代から暮らしが営まれてきた家々が、たった1回の事故で、建ったまま朽ちていく、先祖代々の営みがその中で消え去っていく。そして誰も責任を取らない。
本当に郷土を愛する心を育てたいなら、福島の故郷を人々にきちんと返す(住民が帰るのではなく、住民に返す)べきだろう。
立地条件が悪い仮設住宅
でも人気だそうです。理由はペットと一緒に入居できるから。
生きるには人それぞれの様々な事情がある。それをどう実現するか、そうしたことを大切にする責任が政府にはあると思います。
避難者にとって仮設住宅は狭いし、障害を持った人にとっては使い勝手が悪すぎる。そのような仮設にもう4年間、押し込められているわけです。いわき市の「ニュータウン」は敷地もかなり大きく、それなりにいい家に住んでいるので、避難者からすると、仮設の狭さ、住みづらさが余計、身に染みるようです。
一方、いわき市民側は、たとえば病院などの利用者が増えて余計混雑するようになり、しかも避難は全額公費。また賠償金が月々支払われている。いつまでいるんだという気持ちもあるようです。実際に仮設住宅に物が投げいれらたりするトラブルも起こっているとか。
また、いわき市内では、復興関連で地価が上昇し、全国トップ10はすべていわき市内だとか。さらに資材高騰と人手不足ため(これはオリンピックも関係している)、家が建てられないという不満があるそうです。
いわき市中心部 【0.05~0.06】
15:15、JRいわき駅に到着
ツアー解散。お疲れ様でした。
伊東さん、福島歴教協のみなさん、ありがとうございました。
今回の現地見学で、復興に名を借りた、その場しのぎ的なビジネスに翻弄さている被災地の状況の一端を知ることができました。その背景には、高度成長以来繰り返してきた、でたらめな国の政策・・・・儲けは大手ゼネコンへ、負担は被災者や地元住民が・・・・にあるように思います。
被災地は過去に取り残され、未来は閉ざされているように見えます。今、福島では、「復興」を通して、分断と疎外感が住民に押し付けられています。本当の復興とは、それぞれの人々、それぞれの地域が本来の暮らしを取り戻すことであるとするならば、本当にその日が来るのか、正直なところ、とても厳しいように思います。しかし、福島の豊かな風土がきっと、次の世代による真の復興つながるものと期待しています。
もう一つ、申し訳ないと思いながら、次にこの災害が起こった時、私たちが復興の当事者としてどう行動すべきか、何をしたらよいのか、福島で今、起こっていることについての正しい認識が欠かせないとも考えました。
今回の現地見学でひじょうに貴重な経験をさせていただいたことに感謝しています。
(神奈歴事務局M.T.)