5月8日(日)、法政大学第二中学高等学校の会議室を会場に、午前中に2016年度の神奈川歴教協総会と神奈川大会第7回現地実行委員会、午後には研究集会が開催されました。
午後の研究集会は映画『ザ・思いやり』の人気もあって、会員以外の方も含め51名の参加者が集まり大盛況でした。
(1)2015年度活動総括
〔事務局より〕2015年度は活動の基本をしっかりやっていこうということで、支部・部会の活性化、定期化を図った。中学校部会、川崎支部については定期化が実現し、参加者数も増加した。またHPの作成、県ニュースの発行も軌道に乗り、内容も充実した。県民教や他団体との連携は、もう一つ頑張っていきたい。フィールドワークも11月の関内・中華街、3月の小田原(中学校部会主催)、4月の鎌倉と充実した。教科書問題への取り組みでは情勢は厳しいが、一方で道徳の教科化に対する勉強会もスタートし、活発に行われた。
全国大会に向けての取り組は、9月から現地実行委員会を立ち上げ、「神奈川を知る」シリーズで学びつつ、「かもめニュース」でその成果を会員に伝えている。
〔中学校部会より〕2カ月に1回県民センターで行っている。今までのメンバーにプラスして沢山の人が参加した。メーリングリストの威力は大きい。授業実践のレポート、旅行に行った時の学び、個人研究の成果などを発表しあい、どう授業実践に生かすかという視点で討議した。3月の小田原フィールドワークは、小田原用水を含むコースで、大変興味深いものだった。
〔川崎支部より〕川崎支部例会を3回行った。会場が法政二中高なので法政二中高支部みたいな状況だが、メーリングリストに案内を載せることで、外部からも来てもらえるようになった。メンバーは現役ばかりなのでなかなか時間が取れないのが悩みだが、それぞれの研究や実践を報告している。
〔道徳勉強会について〕道徳の勉強会はすでに2回行って、次回は6月、その次は9月と考えている。毎回14~15人の参加がある。出来れば育鵬社の教科書を使い模擬授業もやってみたい。
〔メーリングリスト〕メーリングリストは新規に作り直し、現在60人余りが参加している。会員同士のコミュニケーションのためどんどん活用してほしい。
(2)2015年度会計報告(省略)
(3)2015年度監査報告(省略)
以上の総括及び会計、会計監査報告を拍手で承認しました。
(4)2016年度活動方針
【目指すもの】
①社会科教育の実践・研究活動を充実させる。
②人類史の発展につながる歴史認識を共有する。
③多様な価値感に基づく民主的社会を建設し発展させる。
④社会科教育の成果をさらに創造・発展させ、次世代へ継承する。
⑤2017年の神奈川/関東大会の成功のためあらゆる準備をし、全力で実行する。
【具体的活動】
①神奈川/関東大会に向けて取り組むべき課題を明らかにし、準備を具体化する。
・現地実行委員を増やし、実行委員会体制を整備する。
・大会の全体像を具体化し、役割分担を決定する。
・関東各県歴教協との連絡を密にし、連携を強化する。
②各支部・部会の活性化を進める。
・各支部・各部会の例会活動を復活する。
・非会員の若い教員・学生も参加できる活動を工夫する。
③身近な地域に根ざした歴教協活動の拡大を進める。
・各地域の研究者・研究団体との交流、地域の歴史や地誌に関わる学習活動・フィールドワークを行う。
・上記のため、各会員から地域で行われている行事・催し物などの情報の収集と集約に協力してもらう。
④ホームページの充実、メーリングリストの活用を引き続き進める。
・ホームページに支部・部会、会員の実践報告や活動・研究の成果を掲載する
・メーリングリストの拡充に引き続き努め、参加者の情報発信に活用できるようにする。
⑤県ニュースの充実を進める。
・年4回の季刊発行を維持する。
・実践・研究活動の報告の掲載を呼びかける。
⑥事務局主催の講演会・フィールドワークの充実を図る。
神奈川/関東大会の現地見学、地域に学ぶつどいなどに成果を反映させる。
⑦沖縄大会・関東ブロック集会の成功に貢献する。
・会員・非会員に沖縄大会・関東ブロック集会への参加を積極的に呼びかける。
・関東ブロック集会のレポート参加の増加に努める。
・特に若い世代の参加の拡大を進める。
⑧県民教主催の夏の研究集会の一層の充実に貢献する。
社会科分科会の運営を担い、より広範な研究交流を図る。
⑨社会科教育に関わる関係諸団体と連携し、情報の共有と教科書採択問題に取り組む。
「アジア・フォーラム横浜」「教科書・市民フォーラム」「空襲を記録する会」「2・11「建国記念の日」に反対するかながわ県民の集い実行委員会」「横浜教科書採択連絡会」「教科書採択の介入問題を考える神奈川の会」などの諸団体との協力を進める。
⑩道徳の教科化と国家の求める価値観の押しつけの問題点を明らかにし、これを押し返す運動に取り組む。
・道徳の教科化に関心を持つ人々・諸団体に協力を呼びかける。
・「特別の教科 道徳」勉強会を開催し、問題点を明らかにする。
〔事務局より〕若い人に参加してもらう機会をどう作るかが課題。若い先生や教師志望の学生を巻き込んだ支部活動が、千葉県では成功している。これを神奈川でも取り組めたらと思う。教科書問題では、すでに育鵬社が採択されてしまったがそれをどうするかということで、他団体とも連携していくことが必要だと思う。道徳については、教科化した時の教科書は育鵬社になりそうだが、問題なのはフィクションで子どもを感動させることが可能であること。小中の9年間そんな教科書で教育をうけることが無いよう活動したい。
(5)2016年度予算案(省略)
(6)2016年人事案(省略)
以上の2016年活動方針及び予算案、人事案を拍手で承認しました。
2017年全国大会テーマ『地域に生きる希望を 子どもたちに』
上記のテーマで現地見学会のコースや地域に学ぶ集いの候補、そしてプレ見学会の案などを話し合いました。限られた時間でしたが活発な意見が出されました。
〔主な意見〕
・大会でフィールドワークに当てる8月7日は月曜日なので、登戸研究所資料館は見られない。しかし8月3日にプレ見学会とすれば出来るかもしれない。明治大学と共催にすれば会場費もかからず、博物館と共催にすれば学芸員は勤務になる。登戸研究所で過去を知るだけでなく、最近新しい事実が次々見つかっている。これを現役の法政二高歴史社会研究部の生徒に聞き取りをしてもらうこともできる。プレイベントとして見学会、また地域実践報告としてもできるのではないか。
・フィールドワークで鎌倉をどうするかは要検討。横須賀または基地は必要と思われる。横浜の見学は可能。小田原は行ってみたい人も多いのではないか。地域に学ぶ集いは、朝鮮人虐殺は後藤周さんが適任だが、千葉県歴教協で朝鮮人虐殺を出してきたので重なってしまう。中華街は曽徳深さんのお話は興味深いと思う。多文化共生では、風巻さんにお願いできるかもしれない。貧困と格差は高沢(オリジン)さんの話がいいと思う。横浜外国人墓地は、現地見学できなくても映像でもいいかもしれない。教科書問題は当然必要だが、これは本部で考えてくれるはず。
・アジアフォーラム横浜の活動も入れて欲しい。
・川崎市の橘樹郡衙跡と、茅ヶ崎市の高座郡衙跡の話を聞きたい。
・遊郭と慰安婦は、横山百合子さんが適任ではないか。
・プレ企画として英連邦戦死者墓地の見学を考えて欲しい。
・先日鎌倉で戦争遺跡の案内をしたが、千葉の方が戦争遺跡としてはインパクトがある
・神奈川の空襲についてやったらどうか。鈴木晶さんのグローカル部も研究している。
・4月28日に基地調査に参加したが、船から港を見ると軍艦が非常に多くて戦争中のようで愕然とした。今の情勢からも神奈川の基地を全国に知ってほしい。
以上で総会と全国大会実行委員会を終了し、法政二中高講堂の見学をしました。1300人収容のホールは超豪華で設備も最新。全国に自慢できそうな立派な施設でした。昼食には学生食堂も利用できました。
午後の部
(1)映画「ザ・思いやり」上映とバクレー監督のお話し
①バクレー監督の話(上映前に)
この映画を作ったのは、沖縄に行ったときに、山口洋子さん(思いやり予算を被災地への署名活動をしている人)にであったのがきっかけ。非常に大きい問題だなと思った。映画をつくったねらいは、2割の日本の人とアメリカの人でなく、真ん中の6割の日米の人の見たい人に見てもらいたい。泣いても笑ってももちろん怒ってもいい。変なアメリカ人がつくった映画だけど、ちょっとおもしろいから見に行かない?と楽しんでもらいたい。
②映画「ざ・思いやり」上映(50分)
③バクレー監督の話
初めて日本に来たのが36年前だった。1980年6月30日、高校1年生のとき、埼玉でホームステイをし、翌年もまた同じ日本人の家庭でお世話になった。
23年前綾瀬市に引越し、6年前に海老名市に引越した。長男は大学4年、次男は大学1年、そして妻の4人で暮らしている。
私は日本で戦争のことについてあまり敏感ではなかった。4年前にある集会で、知り合いの記者に言われたのだが、私が100%米軍基地撤退といっていたら、なぜ50%ではいけないのかと質問され、答えられなかった。悔しかった。考えたら答えがやっと出てきた。
自分の国に米軍にいさせるのは自分の家に暴力団をいさせるのと同じではないかと思った。見たときには挨拶などしてくれるから怖くないかもしれないが、その仕事内容からすると、一人もいさせたくない。なぜなら、彼らは強盗・殺人・脅迫などをしている。そして帰ってきて「ただいま」という。見たところそんなに怖くない。でも一人もいさせたくない。だから、米軍は100%撤退しかないのだ。すぐ知り合いに電話してその話をした。
その後歴史の本を読み始めた。
1812年以来アメリカ本土は1回も攻撃されていない。120年以上東アジアで何をしてきているか。日本の基地のことを知りたいと思った。337以上の基地が世界にある、と国防総省が言っている。これには戦争中の基地や共同使用の基地は含まれない。共同使用含めると1000以上になると思う。80回以上democracy(民主主義)やfreedom(自由)を守るためといってアメリカ軍は出て行っている。それは、独裁政権をたてるためと主権確保のためだ。だから、どうやったら戦争を止められるか考えていた。
日本は素晴らしいところがたくさんある。一番大事にしなければならないのが憲法9条だ。直接的に戦争に参加してないのは9条のがあるからだ。
Why(なぜ)戦争するかでなく、How(どのように)戦争するか、どのように止められるか、が貴重な課題だ。
過去の戦争を見れば、どの戦争にもwhyに答えてくれる。祖父は第一次世界大戦で戦った。アメリカ南部の貧しいアーカンソ州の農家の三男が22歳のときになぜベルギーやフランスに戦争で行ったのか。知りたいと思った。1913年アメリカが中央銀行を作った。その前に法律で、それまで各州ごとだった徴税をアメリカ連邦政府が直接徴きるようにした。そしてアメリカ中央銀行をつくった。中央銀行が政府にお金を貸し、政府が戦争のために軍艦をつくる。利子をつけて返すために、国民一人一人から徴税できるような仕組みにした。
仕組みがあっても誰が戦争したいのか。アメリカ南部とは関係ないところへ行きたいとは思わないからカエサルを悪者にして悪魔を作った。祖父のように戦争へ行きたがらない人がいるので、言論の自由をおさえる法律をつくり、徴兵制をしいた。5つの法律が4年間で通って、戦争が始まった。祖父は1年半ぐらいフランス、ベルギーで戦って無事に帰ってきた。1913年以来、年表を見れば分かるようにアメリカはずっと戦争をしている。
How―その仕組みが戦争を可能にした。We can fight. だからWe do fight =戦争できるから戦争する。そういう国を作ってしまった。
日本は、憲法改悪や戦争できる国つくりを反対しているのがすばらしい。戦争できる国が出来てしまったら、危なくなる。
死体の棺が日本に戻ってきたら、平和を愛する運動はしづらくなる。私たちを守ってくれようとした人が犠牲になっている、ということになるから、声を出しにくくなる。その前にやらなければだめ。
教育が大事。しかし日米で教育への考え方が違う。教育問題では、アメリカでは生徒が問題を起こしたとき校長はわざわざ出てこない。学校ではなく彼が悪いと。日本人はすぐお詫びする。日本人は素晴らしい。教育に期待するし、責任感が大きい。しかし、教育は社会の一部だけだ。インターネットを見ればいろんな意見等が分かる。3年間、6年間にどのような教育をすればいいか考えることが大事だ。
ケネス・バーク(社会学者)は、「大衆教育はテレビだ」と言う。6年間頑張って指導しても卒業してテレビ見たり、新聞を読んだりしたり、いろんな意見が入ってくる。そうしたら、まあ戦争やってもしようがないと思うかもしれない。
どうやって変えられるか。社会が変わると人の頭も変わる。アメリカのジェームズ・ジャスパーという社会学者が、本を書いた。19世紀、アメリカのお祭りの時、猫を生きたまま袋に入れて閉じて火を付けるという見世物があった。みんなをそれをみて喜んでいた。50年から80年前の人は楽しんでやっていたが、今はやらない。時間がかかる。
スペイン戦争は30日で終わった、30分で終わったという人もいる。祖父はそういうつもりでフランスへ行った。塹壕(ざんごう)を掘って何週間戦っても、何万人死んでも、何も変わっていなかった。
イタリアのグラムシ曰く、なぜドイツで革命が起こらなかったのか。疑問を持った時、彼は塹壕戦を引用した。「社会の中で、押しても頑張っても変わらないときは、いろんな意見があるからだ。日米のように民主的な国は特にむずかしくてまとめるのが難しい。」と。インターネットがあったり、いろんな遊びがあったりするから。頑張ってもなかなか変わらない。
第3弾の映画の話で、もう取材は終わったが、池子米軍住宅で逗子市議に話を聞いた。地図を見せてもらった。どのくらい返還されたかと聞いたら、これだけだ(ほんの一画だけ)と。変わらないなと思った。長い闘いだと思った。闘いは長くけれど、疲れてはいけない。諦めてはダメだ、と思う。
真ん中の6割の国民が納得できるようにしていかないといけない。面白く楽しくやらないといけない。
横須賀で、毎月最終日曜日のデモに参加している。そして2か月に1度第七艦隊の基地の前で英語でスピーチしている。例えば、こんな内容だ。「貧しい国、ベトナム・イラク・アフガニスタンなどに爆弾を落とすよりは、アメリカに戻ってよりいい教育や医療制度のために頑張ってくれませんか。」と優しく言う。
軍艦などを見ると非常に重く感じる。疲れたので、帰宅して寝たら、夢を見た。みんなが基地に向かって「We love you」「We love you」、愛してますとささやいていたら、半島ごと外れた。そして軍艦、原子力空母、44000人の米兵とオスプレイが一緒に半島ごとアメリカ本土に流れ着いた。今の話を横須賀の人にすると、「バクレー、その話は素晴らしいんだけど、できれば半分その半島を返してほしいんだけど。」と言われる。その日は絶対に来る。ぜひその夢を皆さんと一緒に実現したいと思う。
(2)実践報告:法政二高の沖縄修学旅行
①沖縄修学旅行の歴史―Oさん
今は沖縄修学旅行は当たり前になっているが、法政二高は初めての学校ではないが、かなり初期に行った学校ではある。そこまでには紆余曲折がいっぱいあったという話を聞いている。
戦後間もなくは空襲で全部焼けてしまったので、行っていなかった。1949年には関西に修学旅行に行っていた。多分米を持って行ったのではないか。1957年博多事件が起きた。博多駅で弁当を買ったが、列車が発車してしまったというもの。高校野球で有名になっていたので、かなりスキャンダルになった。訳が分かり万引きではないと言うことが分かって終息したのだが、教員側の受け止めは違っていた。学校の民主化に取り組み始めた。大学から独立して民主的にやっていこうという動きで、ちょうど労働組合も立ち上がった。その大きなきっかけになった事件だった。
1963年生徒の実行委員会ができ、ばらばらな地域に行っていた。1968年に一度廃止になった。『50年誌』には、いろいろな議論があった中での廃止ということが書いてある。そこから約10年修学旅行はなかった。
1978年、生徒会に修学旅行検討委員会が出来、行きたいという要求が出てきた。生徒会中央委員会(定員33名)プラスアルファで研修旅行を始めた。行き先は広島・長崎で、核問題・平和問題が中心。
1984年沖縄修学旅行が実施された。中心は歴教協のメンバーだった。12月に実施したのは、その1週間だけクラブ関係の公式戦等がなかったからだ。春・秋は必ず何かある。一番多いときで17クラスあったので、ジャンボジェト機ほぼ貸し切りで行った。沖縄戦中心の平和学習がメインなので、現在の基地についての認識は薄い。修学旅行の事後学習で戦後の沖縄を扱う。教員の認識はまだ具体化されていない。
1985年に日航機が墜落したので、広島・長崎に切り替えた。翌年から3泊4日新幹線を利用したが、「のぞみ」はなかったので、とても長かった。
2005年に沖縄に戻した。ひめゆり部隊の話を宮城先生が始めた初期の頃からお聞きしていた。初期のころの生徒には影響力が大きかった。2011年までは宮城先生のお話しを聞いていた。その後、ガマに入る体験もかなり初期だった。最近はいろいろな学校とバッティングして難しくなっている。
前半は平和学習、後半は体験を含めたリゾートでよいだろうということになった。特に美ら海水族館が出来てから変わってきた。
②沖縄修学旅行の現在―Kさん
私は現在の修学旅行について話す。2011年に法政に着任した。過去5年間高2担当で、そのうち4年間は担任として行った。
現在は3泊4日で、A・Bの2つのグループで1日違いで出発する。1・2日目は平和学習、3・4日目は沖縄の自然ということになっている。
共通のコースではあるが、訪問先のキャパが少ないので変えている。平和資料館、平和の礎、ガマなど。2日目の美ら海水族館から内容が変わる。生徒に対する指導も、ここからは携帯のカメラ機能を使ってよい事にしている。3日目は生徒が業者の話を聞いて選ぶ形。4日目は首里城。最終的には国際通りを散策して終わりとなる。一応現在までの沖縄を見ることができるようになっている。
事前学習は、NHKの番組をみていたが、古くなったので、今年からNHKの「沖縄戦全記録」を見せている。学年全体で映画を見ている。「ひめゆりの塔」や「月桃の花」。ホームルームで話をしている。
<2015年のビデオ視聴あり>
教員や生徒の認識について。感想を読むと基本的には真面目で平和学習のことを書く生徒が多い。平和学習といってもメインが沖縄戦なので、現在の基地について書く子は少ない。ガイドはバスガイドか平和ガイド。ガマ…チビチリガマ。暗闇体験…去年シムクガマで(他のガマほど真っ暗にはならない)読谷の村役場。3日目は伊江島。生徒も制服ではなくリラックス。マリンスポーツを行うだけ。最終日、首里城に行くのは全クラス。その後、クラスごとにまとめの集会をやる。
教員の中に議論はあるが、現状の沖縄の問題についてどう取り扱うか難しいこともあり、教科の世界史の方で事後学習として戦後の沖縄について扱う程度で、学年の取り組みとして具体的なものが出てきていない。体験をきくことも今はないので、沖縄戦の記憶の継承をどうするかが課題だ。また、他の学校も沖縄修学旅行を実施しているところが多くなっているので、過密化している事が課題だ。