K.M.
曇天でしたが、13名が関内駅前に集合し、小宮さんの案内で横浜開港の史跡を巡りました。
集合場所の関内駅で、見学のしおりと開港後の古地図をいただき、それを手に史跡を巡りました。それぞれの史跡については、小宮さんのしおり(『神奈川歴教協 秋のフィールドワーク 関内から中華街へ見学のしおり』)に過不足なく、実にわかりやすくまとめられているので、ぜひそちらを参考にしていただきたいと思います。
まず横浜公園を皮切りに、港ゆかりの史跡を巡りました。
プライベートな庭園ではなく、誰もが立ち入れる「公園」が初めてできたのが横浜であったということに、うっかり思い至らなかったなと思いながら横浜公園に入ると、岩亀楼(がんきろう)という石灯籠がありました。開港に際して江戸幕府が横浜に最初に作ったのがこのような遊郭だったと聞いて、敗戦時アメリカ軍の進駐に際して日本政府が慰安婦を募ったという話と重なりました。
一方、火災で岩亀楼などの遊郭が焼失した後、イギリスから要望されたのは遊郭ではなく公園やクリケット場の建設であったため、横浜公園や後にスタジアムとなるこの場所が作られたのだとのこと。大いに考えさせられました。
このあと、イギリス人技師R・H・ブラントンが設計した日本大通り→横浜商工奨励館→横浜開港記念会館→象の鼻桟橋→横浜開港資料館(日米和親条約締結時にもあった玉楠見学)→横浜海岸教会(日本初のプロテスタント教会)とめぐりました。
途中日本大通りでは、関東大震災でも倒壊を免れた鉄筋コンクリートの三井物産横浜ビルも見学しました。
フィールドワークの終点は中華街。
迷路のようなこの一角がなぜ他の街区と異なっているのかずっと不思議でしたが、前掲の古地図を見て頷きました。一帯が沼地で、新田開発の折に排水路を大岡川に向かって整備し、そのまま街区を作ったことが分かるからです。
ここまでは小宮さんにご案内いただきました。その深い内容とよどみないガイドに感心し、勤務校での地域学習にぜひ取り入れていこうと思いました。
夜は中華街の菜香新館にて曽徳深さんの「中華街の戦中・戦後」というお話を伺って、おいしい料理をいただきました。
日中戦争当時、敵国中国人とうことで「南京町」と呼ばれたこの地に隔離されたものの、それほど自由は制限されなかったというお話や、近年の日中関係の悪化によっても、ヘイトスピーチがほとんどないというお話がありました。それは、長年日本人と関係を築いてきたことによるものだとおっしゃっていたのが印象的でした。
中台対立の時代には、日本政府は台湾とのみ外交関係を持っており、台湾を支持する中国人によって、中華学校が大陸寄りであるとして封鎖されてしまったこともあったとのこと。
近年ますます燦然と輝きを増す中華街の裏に、何度も苦難を乗り越えた軌跡を見て、心も体も温まり、お腹も一杯となった一日でした。