関東大震災フィールドワーク参加記

 

 2014年11月29日(土)、晩秋の雨が冷たく降る中を「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」主催の関東大震災フィールドワークに参加してきました。

 集合地は横浜市営地下鉄三沢下町駅、案内は横浜市立中学教諭を勤めながら横浜の関東大震災について研究して来た後藤周氏です。参加者は悪天候にもかかわらず18名と盛況でした。



1.三沢墓地


 初めの見学場所は三沢墓地です。

 地下鉄の駅から両側に商店の並ぶ広い通りを西に向かって進み、右へ曲がった住宅街の細い道に面して小さな駐車場がありました。ここが1923年9月1日の関東大震災で亡くなった朝鮮人の遺体が積まれていた空き地の跡です。道を隔てた向かい側は当時海軍大佐だった村尾履吉氏の広い邸宅となっており、村尾大佐は近隣の方に閣下と呼ばれる人望のある人だったそうです。急坂を登りつめると三沢墓地が広がります。

三沢墓地 駐車場で説明する後藤氏


 朝鮮人の遺体はこの三沢墓地に運び上げられ、現在の管理事務所の近くにあった「行路死亡人」埋葬地に埋められました。

 村尾氏は乱雑に扱われる遺体を見て心を痛め、翌1924年9月1日そこに木塔を建て、近くの陽光院という寺で犠牲者を追悼する法要を営みました。その日は関東大震災一周年で、朝鮮人社会事業家の李誠七(イソンチル)氏が約500名の朝鮮人とともに南区の宝生寺で法要を営んだ日です。


 李誠七氏と仲間の朝鮮人多数は、宝生寺での法要後に三沢に来て、村尾氏とともに陽光院の法要に参加しました。その後1933年に、村尾履吉氏は三沢墓地の朝鮮人埋葬地のすぐ近くに2坪の土地を買い、朝鮮人墓地を建設しました。

村尾家の墓の敬慕碑

 戦後間もない1946年5月村尾履吉氏は亡くなりますが、家の後を継ぐ男子がいなかったこともあり、その遺骨は5年間自宅に置き、その後自らが建てた朝鮮人墓地に埋葬するよう遺言しました。

 しかし李誠七氏は朝鮮人墓地を村尾家の墓地に改装して履吉氏の遺骨を納め、朝鮮人の遺骨(36人分)は港北区菊名の蓮勝寺へ移転させました。また村尾家の墓地に履吉氏への感謝をこめて「敬慕碑」を建立しました。


 李誠七氏は熱心なクリスチャンで、戦前から朝鮮人受刑者を慰問したり、生活困難な朝鮮人を援助した社会事業家です。

 後藤先生の説明によれば、震災時「行路死亡人」として埋められた朝鮮人は、遺体に焼け焦げた跡が無かったことなどから、虐殺された遺体である可能性が高いということでした。

2.久保山墓地

 

 三沢下町の駅に戻り地下鉄で阪東橋へ出て、市バスを利用して久保山墓地へ移動。ようやく雨も小やみになってきました。

 バス停久保山霊堂前で下車すると、久保山墓地の管理事務所の近くに関東大震災犠牲者の合葬墓があります。合葬墓は緑の草に覆われた小型の円墳のような形をしており、傍らに1924年9月横浜市によって建てられた「横浜市大震火災横死者合葬之墓」と刻まれた立派な墓碑もあります。ここが関東大震災で亡くなった方のうち身元不明の方々3300体の遺骨を埋葬した所です。


関東大震災犠牲者合葬墓 久保山墓地

 虐殺された朝鮮人もここに埋葬されているのではないかと言われています。

 

 合葬墓の左手前に、小さな石碑が建てられており、ここには「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」と刻まれています。裏には「昭和四十九年九月一日 少年の日に目撃した一市民建之」と刻まれています。これは神奈川町の石橋大司さんが私財を投じて建てたものです。石橋さんは小学校2年生の時、福富町に住んでいて関東大震災に遭いました。9月3日根岸方面に家族と一緒に避難する途上、久保山の坂で電信柱に荒縄で縛られた朝鮮人の遺体を見ました。

 後年その光景を忘れられず、市長への手紙で何度も虐殺された朝鮮人慰霊碑建立を求めましたが叶わず、結局市有地に許可を得てこれを個人で建立したのです。


殉難朝鮮人慰霊之碑

 

 この慰霊碑の写真は2012年度版までの、横浜市による中学校副教材『わかるヨコハマ』に掲載されていました。しかし2013年度版からこの写真が削除され、記述も朝鮮人虐殺の主体として「軍隊や警察、自警団」によると記されていた部分から「軍隊や警察」が削除され、虐殺も殺害に書き換えられました。しかも改定前の2012年度版はすべて回収され、溶解処分されたのです。


 このような市教育委員会の対応はあまりにも残念であり、私たちは歴史の事実を検証し正しく子どもたちに伝えていかなければならないと思います。

3.中村町 震災作文をたどる

 

 久保山墓地を後にし、バスで阪東橋へ戻り、そこから徒歩で南吉田中学校の横を通って中村川へ向かいました。この辺りは関東大震災当時激しい火災でほぼ全域が焼けたところです。

 

 北に向かって逃げた人々は逃げきれずに火災に巻き込まれ、南へ向かって逃げた人々は中村川を渡って中村町から根岸町にかけての丘陵上に逃げ登り、何とか助かりました。焼けた南吉田第一、第二小学校や寿小学校、石川小学校では、多数の生徒が震災で死傷しました。

 その後1923年12月頃学校では子どもたちに震災体験を作文に書かせています。寿小学校、石川小学校の震災作文は以前から知られていましたが、2004年新たに南吉田小学校で、当時の南吉田第二小学校の震災作文が発見されました。その作文の中には、朝鮮人への迫害を自分の言葉で書いたものもあります。

 

 見学会当日配布された資料には多数の震災作文が掲載されていましたが、そのうち一編を引用してみます。

 

 「【6年】ウワーワーと叫び声『朝鮮人だ』『鮮人が攻めて来た』といふ声が、とぎれとぎれに聞こえた。あまりの驚きに、どうきは急に高くなった。まだ夢の様に思はれるので、尚聞いたがやはり誠でした。あたりは急にさはがしくなった。きん骨たくましい男の方達はそれぞれ竹を切って棒にしたり鉢まきをしたりと用意に急しくなった。もう親のこと、兄弟の身を考えている場合でない、生きてさえ居れば又誰とも会う事が出来るけれど死んでしまえば‥‥‥。何百何千の山の上に居る人々はただただ朝鮮人が来ない様に神に願より他に道はありませんでした。萬一の用意に女子供までも短い棒を持った。そして今来るか来るかと私とお母さんは互いにだき合って他の人々とすみの方へ息をころしてつっふして居た。(下略)」

 

 大震災の当日である9月1日、やっとの思いで山に避難した小学生が、朝鮮人が攻めてくるというデマを信じ、それに対抗するために竹槍などで武装する大人たちを見て不安に怯えている様子がよく分かります。

 

 後藤先生の説明によれば、当時人々を不安にさせるような出来事が幾つかありました。

 中村川とその南の丘陵地帯との間に石油倉(県揮発物貯庫)があり、石油66700箱など大量の石油製品が納められていましたが、それが1日夕刻から次々と爆発炎上していたのです。揮発油の缶は爆発とともに空中高く舞い上がり、火の粉をまき散らし、その爆発音は避難者を恐怖させました。また横浜刑務所(根岸町343番地)が被災したため、刑務所長は囚人の身の安全のため約1000人の囚人を解放しました。この情報が近隣の住民を更に不安にさせました。

 また立憲労働党総裁を名乗る山口正憲という人物が、1日午後4時ごろから東に連なる平楽の丘上の横浜植木会社付近に仲間を集めて「横浜震災救護団」を結成していました。彼らは略奪防止と称して、集団で竹槍や日本刀で武装しパトロールしたり、救援のためと称して裕福な商店などから食料や材木などの物資を強奪したりしました。腕には赤い腕章を巻き、赤い三角の旗を立てて、腕章や旗は「朝鮮人と区別するためだ」と主張していました。

 このような行動が、朝鮮人が略奪する、自衛のため武装が必要、などの噂となって広まったのではないか、ということでした。

 後藤先生によれば、山口正憲は沖仲仕組合を組織したり、普通選挙運動に参加したり、という労働運動活動家的な面もある一方で、右翼の頭目でもありました。衆議院議員選挙に立候補したことがあるものの落選し、代議士の経歴は無いそうです。

 

 

 これらの説明を参加者は中村公園で聞きました。まさに目の前に見える丘に震災火災から逃れようと人々が群れ集まり、1日の午後5時には自警団が組織されて朝鮮人が襲ってくるというデマが始まったというのは印象的でした。ここから虐殺が始まる、その歴史の現場に立っているという慄きを感じました。


 現在の中村公園と中村小学校、その東の県警察施設などの一帯は、震災当時の石油倉の焼け跡だったそうです。そこに震災後関西から救援物資が搬入され、バラック52棟が建てられて、仮設の病院や学校住宅が建設されました。そのため「関西村」と呼ばれた地域である、ということも初めて知りました。

 ここで見学コースを終了し、近くの中村地区センターに集まって、後藤先生への質問や参加者の感想などを話し合い、有意義な見学会を終えました。

 

(神奈川歴教協 M・K)



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