いしいゆみ著 くもん出版
2015年7月21日発行
2010年明治大学生田キャンパスにオープンした平和教育登戸研究所資料館の来館者が4万人を超えたそうだ。実話に基づくこの物語は、「登戸研究所」が人々の小さな噂話の話題にしか上らなかった1987年から始まっている。
法政二高の生徒安藤さん(以下、名前は全員仮名)は、修学旅行先で耳にした他の生徒の声への腹立たしさと悲しさから書いた作文がきっかけで、川崎市主催の「平和教育学級」に参加した。
同校の柳沢先生とともに「学級」に参加した彼は、他のメンバーとともに登戸研究所のことを調べていった。その中で、研究所に勤めていた人と出会い、アンケートをとり、研究所のことを話したら死刑になると、本当に思っていたという人たちから話を聞き、少しずつ研究所が「見えて」きた。
法政二高の平和研究会メンバーも文化祭での発表のために調査・研究をともにしていった。平和教育学級は、1989年7月『私の街から戦争が見えた』いう本を出版し、安藤さんも執筆をした。
そのころ長野県の伊那盆地にある駒ケ根市の赤穂高校の生徒菅原さんは、「一日平和学校」に参加し、駒ケ根に川崎から疎開してきた登戸研究所があったという情報を得た。菅原さんは、学校にもどって平和ゼミナールをつくり、顧問の先生や仲間達と小学校や近隣の農家を訪ね回り、情報を集めていった。その中で、戦後も川崎に帰らず駒ケ根に残った「カボチャのおじさん」長沢さんや兵技大尉であった半田さんから貴重な話を聞くまでになった。
『私の街から…』の出版により、川崎の平和教育学級、法政二高の平和研究会と長野の平和ゼミナールがつながった。
柳沢先生は、「足もとを掘れ、そこに泉がわく」という好きな詩の如く、「自分の足もとをしっかり見つめ、それを掘り起こせば、かならず大切なものが出てくる」という信念をもって終始この掘り起こしの中心となってきたそうだ。
この本の最後には、監修に当たった渡辺賢二さん(登戸研究所展示専門委員・神奈川歴教協の会員)が解説を書いている。
もうここに登場する柳沢先生が誰か…?は、みなさんにはおわかりのことだろうと思う。
(事務局YN)