「日本国憲法の源流をたどる」
伊東富昭
8月7日(月)7時40分、横浜駅西口の横浜VIVLE脇集合。朝からの暑い日差しを遮るものもない場所を避け、早くに到着された方々は近くの日影に待避されていた。10分ほど整列させられ、遅れている2名を待つ現地案内人の一人を残し、他は少し離れた横浜ベイシェラトンホテル横の観光バス配車場所へ移動。ちょうど7月下旬に条例が変更され、ビルの谷間で日影でもあるこの場所には直接集合できなくなったようだ。
出発予定時刻の8時をやや遅れて出発。翌日の雨岳文庫を案内して下さる豊雅昭さんも横浜から同乗、バスの中で事前学習やバスが走っている場所についての話など、こまめにして下さりたいへん勉強になった。
残念ながら道路が朝の渋滞により、JR五日市線武蔵五日市駅への到着が大分遅れたようだ。現地での案内をお願いした新井勝紘先生と鈴木富雄さんと合流。トイレを済ませ、マイクロバス2台に乗り換え、早速深澤家屋敷跡へ向かう。バスは町場を離れ、山の中へと進んでいく、途中、深澤家が神主でもあったという穴沢天神社辺りから、秋川の支流である山内川に沿って遡って行く。かつてこの地を訪れた事のある方は、この道を歩いてたどり着いたという。
真光院の駐車場にバスを止め、鈴木さんの御仲間である五憲の会の皆さんと合流。今回、新井先生が深澤家と交渉して、土蔵の中に入れるということになり、講演会共々是非参加したいということだった。土蔵の扉を開ける際には、かなり重いだろうから力に自信のある方の助けが欲しいと軍手も用意されていた。開扉の際、近くにいた方からは「静かに扉が開くと、蔵の中から、ひんやりとした空気が漂ってきて、緊張。
真っ暗な蔵の中、懐中電灯を頼りに、狭く急な階段を2階に上がりました。新井先生が、50年前の様子を手振り身振りで語ってくださいました。まるで最近のことのように」との感想が述べられている。実は前日、土蔵の中は明かりがなく暗いので懐中電灯が必要。あるだけ用意しておくとの連絡が新井先生から入っていたとのこと。
土蔵はそれほど大きくはなく、しかも2階に上がらなければならないため、一度に全員は無理で4グループに分けて順番に入ることになった。2グループは先に少し山の上にある深澤家跡地を見下ろせる墓地に案内され、鈴木さんの説明を受けることとになった。
深澤村は、わずか25戸、人口130名、村高45石の小村だった。五日市憲法を起草する千葉卓三郎に私淑
し、五日市周辺町村から数十名の会員を集めた五日市学芸講談会で幹事を務めた深澤権八の墓碑には「権八深澤氏墓」とある。卓三郎が31歳で亡くなった6年後
の明治23年(1890)に29歳で死んでいる。権八の墓を建てたであろう父も、その2年後に亡くなっている。権八の祖父の墓には「左衛門尉茂平墓」とあり、幕末期に八王子千人同心の株を110両で購入したという。また林業にも手を出し、筏流しの元締めも勤めていたという。
土蔵内の見学に時間が取られてしまい、11時25分に急いで次の見学場所へ移動。この日は墓地の説明で、鈴木さんは200回近く案内をされていながら、土蔵の2階に上がることができなかった。新井先生から、次には必ずと約束されていたが、申し訳のないことであった。
五日市憲法草案の碑は、五日市中学校の敷地内に建てられている。神社には、炭問屋から身を起こし、この地に電力や水道、鉄道などの近代化をもたらした岸忠左衛門ゆかりの地として、彼の胸像があった。神社から少し歩き、秋川を見下ろすことができる段丘の上に内山家のキリスト教墓地があった。内山末太郎(8代目安兵衛)は、学芸講談会の会長を16歳で務めたという五日市の資産家で、明治21年(1888)にカトリックに入信した。今回の見学に先立って、夏草の生い茂った墓地を、7月29日の暑く、しかも雨が降る中で、きれいに刈り取って整理して下さったのが五憲の会の皆さんであった。深謝。
白と赤の花が見事に咲いたサルスベリの並木道路を進み、五日市郷土館に入る。2階の展示室には五日市憲法と共に発見された学芸講談会関係の資料が展示されていた。また江戸末期に特産品として「五日市」の名で全国に広まったという、泥染めの絹織物「黒八丈」も紹介されていた。
郷土館で元の大型バスに乗り換え、昼食と講演会場の戸倉テラスへ向かう。バスは近くまで行かないので、駐車場から5分ほど歩いて登ることとなる。廃校となった小学校をそのまま利用した施設であった。2階には「青い目の人形」が展示されていた。「旬の野菜天ざるうどん」で昼食を済ませた後、新井先生の講演が始まった。時間の遅れは、昼食時間の調整で何とか取り戻せた。
五日市憲法の複製を何枚か用意してくれていた。佐倉の国立歴史民俗博物館時代に作製したもので、製作には900万円がかかったという。講演では小田急電鉄の創業者利光鶴松と五日市との関係、五日市学芸講談会での討論内容、五日市憲法草案の逐条解釈、大正デモクラシー期の五日市の動向、戦後の鈴木安蔵らによる憲法研究会案と現行憲法との関わりなど、興味深い話が尽きなかった。
講演が始まる頃から雨が降り始めており、「下校」時間とした4時40分には傘を持って出なかった方がバスまで早足で濡れながら帰らねばならなかった。宿泊地の七沢温泉に向かう高速道路は渋滞、時折激しい雨が襲ってきた。相模原ICで一般道に降り、宮ヶ瀬ダム、清川村を通って「元湯玉川館」に到着したのが夜7時。そのまま夕食となる。温泉は強アルカリ鉱泉で「くすり湯」と呼ばれるようになった滑らかな肌触りで、神奈川大会の疲れを充分に癒やしてくれた。
8日(火)は8時30分出発で、伊勢原の雨岳文庫に向かう。20分ほどで到着し、バスは隣接するコンビニの駐車場に停車。元は山口家の地所である。自由民権運動に活躍した山口左七郎の屋敷を活用して雨岳文庫資料館が開館したのは2008年(平成20)年。改築された土蔵に湘南社関係の資料などが展示されている。深澤家の土蔵より3倍くらいの大きさの立派な蔵であった。
木造2階建ての主屋は天保期の建築と推定され、幕末期に領主間部氏の指示で現在地に移築され(曳き家)、代官所として武家屋敷風に改築されたという。奥座敷の東南方に設けられた離れは、日露戦後に陸軍の演習が行われるようになり、急遽、指揮官として訪れる宮様の宿泊所として造られたもので、風呂場も付いている。2階には領主の間部氏が自らの休息所として設計した部屋が2室設けられているが、数寄を凝らした造りとなっている。階段の左手には小さな部屋があるが、ここで当主の左七郎は生活していたという。自分が養子であることを遠慮して、跡継ぎである子どもたちには、御殿様用の部屋を使わせていたという。
庭には「自由は大山の麓より」と刻まれた「自由民権の碑」が見られる。2016年に相州自由民権135周年を記念して建てられたものという。題字は雨岳文庫資料館初代館長の故大畑哲氏であった。
最後の見学地、町田市立自由民権資料館へ到着したのは予定時間を30分ほど遅れた11時45分。最初の建物は、開館当時、市の職員であった新井先生らが設計したものという。当所は近所の人が間違えて、そばを注文に訪れたという。学芸員の松崎稔さんから、資料館についての解説を受けてから、常設展「武相の民権/町田の民権」、特別展「村野常右衛門関係史料」(後期)を自由見学。多くの参加者は松崎さんの案内で熱心に解説を聞いていた。
食事の時間もあるため、石阪昌孝の墓、自由民権の碑(透谷・美那子出会いの地)は、予定していたぼたん園の駐車場まで入れず、暑い中をかなり歩かなければならないこと、帰りの新幹線の時間を気にされている方がいること、まだ資料館の展示を見きっておらず、松崎さんへの質問や書籍購入もしたいという方が多いということで、墓等をカットすることを提案、諒承された。
昼食は資料館の隣にあるゼルビアキッチンで和定食。ご飯の配膳など、セルフで行うシステムの店だった。2日間付き合ってくれた豊さんとは資料館で別れ、帰途に就く。横浜には心配された渋滞もなく、3時に到着できた。