2016年歴教協全国大会 沖縄大会の報告

 

 2016年の全国大会は、沖縄県の名護市市民会館と琉球大学を会場として開催されました。

 

 8月5日にはプレ現地見学で、辺野古テント村やキャンプ・シュワブゲート前テント村に行きました。

5日午後は、名護市民会館において全体会が行われ、稲嶺進名護市長の特別報告やシンポジウムがありました。

 6日は分科会が始まりました。午後5時から7時には「地域に学ぶ集い」が開かれ、12のテーマで地域の研究者や当事者の方々からじっくりお話しを伺いました。

 7日は分科会と閉会集会が行われ、大会実行委員会のバトンが沖縄から神奈川に渡されました。

 8日・9日には、5つのコースで現地見学が行われました。

 

 

プレコース

 

85日(金)歴教協第68回全国大会・沖縄第1日目は、名護市名護市民会館で行われました。

 

その日は、午前中いっぱいを使って現地見学プレコースとして、辺野古テント村とゲート前の見学が行われました。沖縄県庁前午前8時出発の貸し切りバスに分乗し、半日だけでも沖縄の運動に共感し協働したいという熱い思いの歴教協会員や一般市民が押し寄せました。従来の大会に無いスタートでした。


このプレコースに参加するためには沖縄前泊が必要です。その余裕のない参加者の多くは、午前10時半ごろ飛行機で那覇空港着、そこから名護市民会館まで約1時間半の道のりを貸し切りバスで向かいました。会場に着くとすでに受付を待つ長い列。市民会館は全国各県から参加した、顔なじみや若い仲間で賑わっていました。

辺野古テント村・ゲート前へのプレコース見学参加記

2016.8.5(金)

9:00 県庁前 出発、宜野座村で高速を降り、左折(名護へ向かう)、雨が上がっている。

9:23 下車。辺野古海岸へ7~8分歩く。坂、階段を降りると辺野古川がある。橋を渡ると海岸に出る。青く澄んだ

9:35 海岸で「ヘリ基地反対協議会」共同代表の安次富(あしとみ)さんの話を聞く。(代表は1人だが、大西さん:注参照 を記念して共同代表の名を使う)テント村座り込み4492日の看板、新基地建設阻止8年(2638日)。命を守る会の闘い。

 

 

20年前、5~7年で普天間を返す約束をしたのを反故にされた。「既存の基地にヘリポートを作る」はずが、辺野古新基地建設に。“基地たらい回しノー”で当選した市長が怪しくなる。19971227日の選挙で勝つが受け入れを決めた市長のリコール運動。小渕内閣は沖縄サミットで潰しにかかった。「イデオロギーより沖縄を一つに」、基地(5%)より観光(15%)、リゾートにしたほうが経済効果大。安倍首相は「県民によりそって」といいながら、「辺野古が唯一」「基地と経済振興はリンク」と繰り返す。

〔問題点〕

     ここは珊瑚の白化が無い大浦湾の潮流。珊瑚の新種や、アカウミガメの産卵場所。単なる普天間の代わりでは無い。ここに「揚陸艦4万トン、2千人の海兵隊、15台の戦車」の埠頭を作るという。それは辺野古弾薬庫(日米地位協定で査察を廃止)に、海から何でも勝手に持ち込めるということ。県道なら県民の目が光るのだが。

     つまり新鋭の機能を持った新基地の建設である。

     しかも全額日本のお金(税金)で建設する。それを問題にしないのは政治、メディアの堕落である。

 

 

更にこの地域には遺跡の発見もあった。1600年代中国との貿易で中国の錨(いかり)石、八重山の土器が出土。太平洋戦争の遺跡もあり、県教委は文化財指定をしたところである。また埋め立て17万トンの土砂で、外来生物による生態系破壊の危険があり、国際的にもおかしい。左の小島がV字滑走路の起点、さらに左奥の鉄塔まで伸びる。

 

この新基地建設は、結果として沖縄戦再度を想定したものになる。だが、沖縄の民意がちゃんとある。全国の抵抗運動やアジアの人びととの連携、そういう運動を創っていきたい。

辺野古テント村、 水色Tシャツの方は安次富さん
辺野古テント村、 水色Tシャツの方は安次富さん

10:15 強烈な日差し、暑さの中、バスに戻る。

10:25 ゲート前へ。ゲート前座り込み761日目続行中!の看板。キャンプシュワブ。

正門前のデモ、ぐるぐる回るようにして時間を決めてやっているようだ。テント側歩道と車道の間には柵が設けられ、テント側から渡って合流できない。

 

〔シズエさんのお話〕

711日朝から高江での工事、オスプレイ対応ヘリパッドの建設である。既にヘリパッドが11ある所に+6移転、この6は明らかにオスプレイ対応、45mサークルから75mサークルへ、コウモリも住めなくなる。文化部(静岡からも)、写真…珊瑚、機動隊の暴力。「辺野古総合大学」、4月ゲート前で開講(そのDVD41組で2千円)。

工事用ゲート前へ移動して、海兵隊施設の入り口も見る。オレンジ色のライン、ここから中に入ると基地内に立ち入ったこととなる。

テントでの買い物(Tシャツ1枚1500円、絵はがき1セット500円×2、シール1100円×5、パンフ100円×3など)。

 

 

辺野古テント村
辺野古テント村

11:20 バスへ。セダケ(瀬崇)へ向けて出発。

11:35 風光明媚な海岸で、名護市議会議員の東恩納たくま(琢磨)さんのお話をきく。

 

右キャンプシュワブまえのには点々と船、漁船だが漁をしているわけでは無く、沖縄防衛局に雇われた監視船である。その日当は5万円。漁師を飼い殺しにし、漁をしなくなるので魚が無く、値段も高騰、市民生活に影響が出ている。それが地域を分断することになる。毎日30隻ぐらいの船が出るが、10日~15日で月50万~75万の収入になる。マリン集団、民間の警備会社は海上保安庁の天下り先である(警察の天下り先はアルソック)。


鉄塔から岬まで10m海面から上げる土砂は、全て瀬戸内海や五島列島から運ばれる。外来生物による生態系破壊の危険がある。サトウキビがやられる。4年に1回の世界自然保護会議(IUCNの大会が今年ハワイで行われる。2008年には「ジュゴンを守れ」の決議をしたが、今回は「土砂を許さない」の決議を出そうとしている。ジュゴンは国際的保護動物。

「辺野古が唯一」は米政府では無く、こだわっているのは日本政府(面子)、豊かな自然を壊す。米は、海兵隊予算の削減のため、日本が出してくれれば有難い。日本政府は、見直しはしない。地元を通り越して、辺野古3地区の区長あてに直接各区1千万円ずつ地域振興費を渡すという。(区は草刈り機でも買うかなどの話をしている)。

米へ交渉に行くとグアムの議員は「辺野古市長は賛成している」と言う。「名護市」では無く「辺野古市」と言うのだ。どうしてそんなことを言うかというと、元は外務省情報である。「再編交付金」は反対すれば止まる。予算使い切りで、地方自治法違反ではないか?賛成しているところには手厚く、そうで無いところには厳しく。

沖縄県は、県民の所得は日本国内各都道府県で一番低い。基地に生産地域を取られるからで、このも提供水域、山もそうである。

カヌチャベイリゾートは左のホテル、機動隊が泊まる。人工の砂だが、500人の雇用がある。基地は面積がその50倍、なのに100にも満たない雇用。天然の静かな浜なのに。いいところを米軍が取っている。基地の建物は思いやり予算、米兵だけ出て行ってくれればもっと雇用も生まれて、もっと沖縄は豊かになるのでは?

 

参加者から「ふるさと納税のやり方を教えて欲しい」の声があがった。ネットでは出ているが、使わない人も多いので、東恩納議員に依頼した。        

(神奈歴 H.T.

 

 

注:「大西さん」とは沖縄歴教協の中心的メンバーで平和教育や米軍基地問題に関わった、元高校教諭大西照雄氏のこと。「ヘリ基地反対協議会」代表委員をされていたが、20136月病気のため逝去された。

 

全体会


開会挨拶 基調報告

定刻の13時に全体会開会です。歓迎の言葉として君島和彦歴教協大会委員長、続いて沖縄県歴教協委員長の平良宗潤さんから力強いメッセージがありました。


 連帯のメッセージは韓国・全国歴史教師の会副会長金南秀さんから。当然ながら韓国語ですから、私たちは訳文を読みながら聞きます。

全体会 会場受付
全体会 会場受付

その中で、2015年韓国政府が「肯定の歴史観」「愛国心」を強調して韓国史教科書を国定化すると発表した、という部分に目が留まりました。まるで日本と軌を一にしているようです。全国歴史教師の会では、歴史教科書国定化を阻止するため、さまざまな方法で危険性を知らせてきたとか。「偏狭な国家主義は、20世紀の人類に大きな傷を残しました。…海をはさんで痛みを共有する両国の教師たちは、歴史教育を通じてこのような傷を癒し、生徒たちを民主国家の市民として育てることに大きなやりがいを感じていると思います。」というメッセージに心から共感しました。

 

続いて歴教協副委員長の丸浜昭さんによる基調報告です。「沖縄のことを日本全体の問題とするために」と題して、今年6月元海兵隊員による沖縄女性への強姦・殺害事件が起こったこと。それにもかかわらず海兵隊を撤去せよという沖縄県民の要求が、日本全体の問題になりきらない現状をがあることが述べられました。その一方で沖縄の問題を授業で取り上げる教師、あるいは修学旅行で沖縄を学習する中高生が多数いて、『歴史地理教育』でも何度も沖縄特集が組まれ、沖縄に心を寄せる若者たちもいます。では、なぜ沖縄の問題が日本全体の問題にならないのか、それは日米安保条約を中国、北朝鮮などから日本を守るための抑止力として不可欠と捉える共通認識があるから。従って沖縄の米軍基地は日本を守る抑止力になるのか、軍事力を安全保障と考えることでいいのか、という視点での学習が必要と訴え、満場の聴衆の共感を得ました。

 

 

地域特別報告

 

 続いて名護市長稲嶺進氏が登壇し、地域特別報告として「辺野古の海にも陸にも新たな基地は造らせない」という講演を行いました。沖縄の夏の正装かりゆし姿の稲嶺市長は、開口一番「ハイサイ・グスーヨー・チューガナビラ(お集まりのみなさんこんにちは)」と沖縄言葉で挨拶をし、喝采をあびました。


 名護市は1996年の普天間飛行場返還合意から20年、地域住民はアメとムチの政治的戦略により分断され、それにもかかわらず自由と平和を求めて闘い続けています。稲嶺氏は2010年、新基地を造らせない、再編交付金に頼らないまちづくりを掲げて名護市長に当選しました。そして子育て支援や地域力再生、循環型社会の実現などをめざして実績を上げてきたものの、新基地建設という問題は依然として重くのしかかっています。ここしばらく名護市民の強い意志から、シュワブの陸上・海上での工事は中止状態にありましたが、参議院選挙が終わったとたんに工事は始まり、今後どうなるかは不透明です。稲嶺氏は、「皆さんは沖縄だから対岸の火事だと思っている。

稲嶺進名護市長
稲嶺進名護市長

よそごとだと思わないで、本土の無関心が沖縄に負担を押し付けている」と強調しました。また「沖縄には人権がない。民主主義も地方自治も踏みにじられている」という言葉には重みがありました。最後に、沖縄で見たこと聞いたことを、帰ったら生徒に話して欲しい、と訴えました。

 

 

 

シンポジウム 日米安保体制に抗う沖縄民衆のたたかいに学ぶ

 

 充実した講演が続いて少し疲れたところで、沖縄歴教協関係者による合唱と休憩時間がありホッとしました。次のプログラムはシンポジウムですが、元衆議院議員の古堅実吉(ふるげんさねよし)氏と沖縄大学名誉教授新崎盛輝氏による連続講演と、その後若手教師が2人に質問するというスタイルでした。古堅氏は沖縄戦を学徒兵(鉄血勤皇隊)として経験し、九死に一生を得た方です。戦後は米国の統治下の沖縄から本土に渡り、関西大学に入学しました。その頃沖縄では米軍が銃剣とブルドーザーで農民の土地を取り上げていました。その状況を何とか本土に伝えようと、夏休み中密かに伊江島に潜入し、家も農地も失って呆然としている農民の姿を写真に撮って、初めて京都の学生組織に伝えました。やがて弁護士として本土復帰前の沖縄に戻り、核も基地もない平和で豊かな沖縄を取り戻すための「島ぐるみ」のたたかいの先頭に立ったのです。当時の闘争の様子が、ご本人の口から生き生きと語られました。

 

 続く新崎氏は、少ない持ち時間を気にしながら、新著『日本にとって沖縄とは何か』の流れに沿って、沖縄の基地の拡大と変化を語りました。安保闘争、ベトナム戦争、本土復帰などのトピックごとに、沖縄の状況が変化していることがよく分かりました。

 

 最後に短い時間ながら、若手の先生とベテランお2人の質疑がありました。最近は米軍の訓練の様子が北部山岳地帯など沖縄県民の目の届かない所で行われ、基地の問題が見えにくくなっているなっているのではないか?という質問に対し、古堅さんが「昔は目の前で実弾演習が行われ、流れ弾が飛んできた。見えない所でやるようになったのは、我々の長い闘いの結果でもある」というようなことを答えていたのが印象的でした。興奮に包まれた大会1日目、名護市民会館に集った仲間は約550名でした。

 

 

神奈川県交流会

 

 全体会終了後、貸し切りバス4台に分乗して参加者のほとんどは那覇市に戻りました。各ホテルはだいたい県庁周辺のゆいレール沿線です。ホテルに寄って荷物を置いてきた人も再び集まり、午後7時頃から沖縄料理の店「琉歌」で神奈川県の参加者交流会が行われました。参加者は予想した20数名を大きく超えて31名、座る場所がないほどの賑やかさでした。各自自己紹介とともに、来る2017年の全国大会への抱負を語り大いに盛り上がりました。来年の大会成功への希望をつかんだ交流会でした。

 

(M.K.)

 

 

 

分科会

 作成中です。

地域に学ぶ集い―6.辺野古をめぐる環境問題―参加記

 講師は「沖縄・生物多様性市民ネットワーク」の中川秀樹さん。

テーマは「Connecting Green Dots緑の点をつなぐ 辺野古新基地建設における環境の闘い」だ。「Connecting Green Dots」というのは初めて聞いた言葉だが、環境を守る闘いにおいていろんなところと繋がっていかないと闘えないのだと聞いて納得した。

 日本中の74%の米軍施設が沖縄に集中し、面積の10%、本島の18%に米軍施設がある。県民140万人に加えて、米軍人・軍属は28000人+家族19000人、合計47000人が沖縄にいる。

 

 


環境の豊かな所・環境汚染が問題視されている所はすなわち米軍施設のある所だ。しかし一方で、日本中で一番埋め立てが多いのは沖縄だという。基地があり、開発ができない故に海を埋め立ててきたからだ。それでも大浦湾やヤンバルには豊かな自然がある。

 

辺野古新基地建設の歴史をふり返った。1950年代以前の基地は土地取り上げによってできたが、キャンプ・シュワブはなんと話し合いで土地提供がなされたそうだ。そういうこともあったのだと驚いた。

1995年にSACO合意により、普天間基地の移設計画ができた。96年東海岸が建設予定地となったが、97年の住民投票では「NO」が勝利した。那覇防衛施設局がジュゴンを確認したのもこの年だ。99年辺野古「沖合案」が閣議決定され、2004年にボーリング調査が始められ、それに抗して座り込みが開始された。2005年には「沖合案」が廃止され、06年「沿岸案」が閣議決定された。「沖合案」も「沿岸案」も閣議で決定されただけで「国のもの」になってしまうのだ、安保法のときに閣議決定で怒ったが、もっと前から「閣議決定=国の考え」になってしまっていたのだと、改めて考えてしまった。08年から環境アセス調査が始められた。12年に「環境アセス」補正評価書が提出された。13年には反対といっていた仲井真知事が埋め立てを承認。14年ボーリング調査、陸上工事着手。そして11月に知事交代―翁長知事に。15年には翁長知事による承認取り消し、国が沖縄県を提訴。16年、高裁による「和解」を国・県が受け入れ、工事中断。

 防衛施設局による環境アセスでは「環境に影響なし」「保全措置は十分」ということで、 「辺野古新基地建設ありき」の結論にむかって仲井真知事に「埋め立て承認」させたり、高裁の「和解」を受け入れたりと行政手続きはそつがない。

 

 これに対して1996年から今まで建設を阻止しているのは民主主義の闘いだ。これ以上の基地負担は耐えられない、沖縄を真の平和の島にしたいという民意を、住民投票・選挙・訴訟・県民大会・デモ・不服従の直接運動(座り込み)などの手法で訴えてきた。政府の強硬な姿勢にもかかわらず、20年近く建設を阻止しているのは、これらの民主主義を守り抜く人達の力だ。  

 

260種の絶滅危惧種を含む5300種の海洋生物が生息(この数字は環境アセスより)している大浦湾に、2100の土砂(10tトラック350万台分、うち1700は県外から)を投入して、環境に影響のないはずがない。

この豊かな自然を守り、次世代に継承するためには、100億円ぐらいかけておこなわれた環境アセスや事後調査等の検証や防衛局など関係機関への訴えなど、法制度を守らせるのも民意と同様民主主義の闘いだ。アセスの不備や、法制度的にもクリアしていないことを認めさせることだ。

 

長い不屈の闘いがあるにも関わらずなぜ基地建設が強行されるのか―それは、県民の民意の無視と沖縄に対する差別的構造だ。

民意の無視に対して、政府は常套句「丁寧に説明して行く」、差別に対しては「していない」「法制度はクリアしている」「あなたが選んだ知事(仲井真)がアセスに基づいて埋め立て承認したのだ」と。

 

環境アセスは「環境に影響がない」「保全措置はよい」といっているそうだが、大浦湾は沖縄の環境ランク№1である。2100の土砂を投入して環境に影響がないなどと、よく言えるものだ。素人の私にだってわかる、影響は大ありだ。

アセス曰く「ジュゴンは辺野古海域をあまり利用していない」と。しかし、2014年の防衛局調査では77カ所の食跡(はみあと)が確認されている。

またアセス曰く、「ジュゴンは嘉陽沖と古宇利島を主な生息域とする」と。しかし、防衛局は、大浦湾の辺野古沖でみつかったものも嘉陽沖でみつかったことにしてしまっている。

 

アセスをしたという専門家の名前の公表がされていないというし、「環境監視等委員会」は基地建設前提のもので、防衛局が運営を担っているから、都合の悪いものは出てはこない。環境局は2014年にアセスに関与できないと言っているそうだし、裁判所や調停委員会は環境保全に関する専門家を法廷に出させないで、書面だけ提出させているという。

だから、今は「アセス」の不備を認めさせることや法制度的にもクリアしていないことを認めさせることが求められている。

 

9月にハワイで開かれるIUCN(国際保護連合)では稲嶺名護市長も訴えるそうだ。IUCN1200の組織が会員となり、160カ国11000人の科学者・専門家の集まりだそうだ。

米国海洋哺乳類委員会や米国国家歴史保存諮問委員会という機関も辺野古には注目している。特に後者は2008年のジュゴン訴訟に関わっている。この訴訟では、原告が勝訴している。米国国防総省は、日本政府の環境アセスを使って「問題ない」という見解を示している。日米両政府の対応に注目したい。

 

これら環境問題を扱っている機関は小さく各々の機関や団体の力は小さいが、国外の闘いを日本国内にどうつなげていくかが大事なところだ。そのためには、国会での「アセス」の再検証や人材・資金の問題がある。より専門的な知識と英語力が必要なのだ。そこがボランティアベースの限界でもあるとのこと。

 

でも、20年近く求めてこられたのは、民主主義の闘いと環境の闘いが連動してきたからだ。それを可能にしてきたのは、かけがいのない豊かな環境とそれを裏付ける日本政府やNGOの調査結果やデータの存在と蓄積だという。

 

質問コーナーで、中川さんが言われた「コモンセンス」と言う言葉が心に残る。そもそもここにつくるのはどう考えてもおかしいのだ。

状況を学んで、他の人に伝えていくことが大事というメッセージを真摯に受け止めたい。

 


                           (神奈川歴教協 Y.N.

 

 

現地見学―C.宮古島の歴史・文化をめぐる―参加記

現地見学は宮古島へ行きました。参加者は30人(現地実行委員さん含む)神奈川からは、石山さん、伊東さんと私です。住所が川崎の方も1名。宮古島空港には那覇空港から50分。飛んだと思ったらもう着陸でした。

 

宮古は地上戦こそ無かったものの、軍用地として強制接収、3万の陸海軍将兵が駐留したところです。連日の無差別空襲、ほとんどの集落は全焼、艦砲射撃を受けました。食糧難による飢えとマラリアに苦しみ、「犬、猫、鳥みな食いつくし、熱帯魚に極限の命つなぎたる島」(高澤義人さん)でした。宮古島の野原(のばる)の「アリランの碑」が12カ国の言語でかかれていました。平和ガイドさんの上里さんは、戦争体験者やおばあさんから聞いた話として、「慰安婦」と地元の人との交流の話をしてくれました。 

 

宮古島 慰安婦の碑
宮古島 慰安婦の碑

その隣には「高澤義人歌碑」がありました。高澤さんは衛生兵として宮古島に行き、「補充兵われも飢えつつ餓死兵の骸(むくろ)焼きし宮古(しま)よ八月は地獄」と、もう涙も出なかったそうです。歴教協の地域の掘り起こしが進んで「餓死兵焼きすてし具体語れと招かれて宮古歴教協に馳す夏の生き残り兵」という短歌も詠まれました。参加者だった全国ネット21の俵さんは、同じ松戸の人で、懇意にしていた人とわかり、びっくりしていました。

宮古島 高澤義人さんの歌碑
宮古島 高澤義人さんの歌碑

バスの中ではウトウト眠ってしまい、降りるとき起こされたり・・・・。

機関銃陣地壕の跡、憲法9条の碑、郷土史研究家の仲宗根將二さんの講義をうけました。これが歴教協でした。

 

夜の食事交流会では、歴教協にかかわった方々による草笛、けん玉、三線と歌、踊りに、大笑いと拍手、感謝、感謝です。「沖縄を返せ」、の大合唱が私はとても印象的でした。学生時代にタイムスリップでした。


 

翌日は、伊良部大橋と海に感動。自衛隊配備に反対の闘いが、迫力を持って現地で語られました。印象に残った言葉「沖縄県の教訓は、軍は国民を守らない」(講義の中で仲宗根さんより)「どうぞダイエットはやめて下さい」(辺野古にテントを張って非暴力で、引き抜かれようとすることを阻止しようと、運動する人に呼びかけたことば。明るく闘う不屈の沖縄の人たち)。神奈川関東大会では、沖縄からたくさんの教訓が引き出されそうです。みなさま、お元気で夏を乗り切り、お目にかかりましょう。                                              

辺野古でみかけた看板
辺野古でみかけた看板

宮古市教育委員会発行の4冊の観光ミニパンフ(無料)が、宮古空港にありました。その中に「戦争遺跡編」がありました。A5サイズ、カラーで素晴らしいできです。3冊私が持っています。先着順で差し上げます。宮古島市教育委員会に問い合わせすると送ってくれるかも。

 

(神奈川歴教協 S.M.)


現地見学―D.八重山の歴史・文化をめぐる―参加記

 

 「戦後になってから死者が増えたのが特徴」と元鉄血勤皇隊、戦争マラリアを身を以て体験された平和ガイドSさんの挨拶から旅は始まった。車窓は照りつける南国の日差しと見渡す限りの草原、於茂登岳に連なる雄大な山々。当時12歳だったSさんはトタンに乗せた多くの遺体を大人たちが運んでいく様子を戦後1年半にわたり眺めていたそうだ。

 

 バスは野戦病院跡に立つ暁の塔に。看護の為に動員された住民や女学生らがマラリアと飢えに苦しみ犠牲になった現場だ。今は草原に埋もれどこが病院跡だったのかさえ分からない。どうしたらその苦しみに寄り添えるだろうか。

 

 

 そして憲法9条の碑。どこかで見たことがある…。隣で「20147月増刊号表紙」との声が!横に立つと、込められた願いが伝わってくるようだ。9条の碑が壊れると碑の後ろ、羽を広げたハト像は倒れる。支え合っている2つの石は加害を意識し中国から。「やっぱりこの方向に」としたのは赤瓦の石垣市立図書館を正面にした向き。朝日が昇ると自分の影が条文に映るからだそうだ。デザインを担当したSさんの9条への想いに胸が熱くなった。

八重山九条の碑
八重山九条の碑
八重山九条の碑背面の鳩
八重山九条の碑背面の鳩

朝鮮人や住民の動員で掘られたヘーギナー壕の上には当時、海軍北飛行場があり空襲が激しかったそうだ。前日までに実行委員の方が草を刈ってくださったことに感謝し亜熱帯植物をかき分け壕に入る。広々とした軍の壕で途中からコンクリートが張られていた。同じような壕が近くにいくつかあるという。

 翌日は戦争マラリア紙芝居鑑賞後、慶田盛安三前竹富町教育長から教科書採択問題に揺れた当時の生々しい話を伺った。育鵬社版教科書を推す人々はその理由についてほとんど議論しなかったそうだ。

八重山戦争マラリア犠牲者慰霊碑
八重山戦争マラリア犠牲者慰霊碑

 

また石垣島への自衛隊配備を止める住民の会の方々から闘いの現状を伺う。現中山市長は推進派、反対
派どちらとも会おうとしないという。

 

 八重山に地上戦はなかったが空襲と艦砲射撃、そして戦争マラリアで住民が犠牲になった。それは有病地と知りながら日本軍が山間部に「避難」を強いたからだ。犠牲者遺族たちは戦後、国から費用を勝ち取り「八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑」を建立した。忘勿石(わすれないし)に刻まれた戦争の実相と戦後から今の闘いに学び「大陸への近さ」を活かす道を共に考えていきたい。充実した現地見学をありがとうございました。

 

(神奈川歴教協 A.H.)