原発問題を考える 福島北コース

原発問題を考える 福島北コース

福島北コースへ出発

 

 2015年の歴史教育者協議会全国大会は「宮城/東北大会」として仙台で行われた。

 観光客が大勢集まる七夕祭りが8月8日(土)までだったため、翌日9日(日)からの開催と、通常より遅く始まっていた。11日(火)午前の分科会を終え、閉会集会の途中12時から、会場となっていた東北学院大学土樋キャンパス内の学食で昼食を取り、12時55分の案内で、福島南へ回るEコースと共に、狭い正門を入ってきた大型バスに乗車、会場を後にした。


 仙台からは国道4号線で南下、長町ICから仙台南部道路に入り、仙台若林JCTで仙台東部道路に入る。東日本大震災では津波が襲った仙台空港を含む海岸側を左手に見て、さらに常磐自動車道から国道6号線に出て福島県に入った。南へ抜ける一部は被災のため開通していなかったが、幸いに3月に通れるようになって、今回のフィールドワークに間に合ったということである。


 トイレ休憩を取った道の駅「南相馬」では、現地案内人2名が合流。道路を挟んだ北側には仮設住宅が並んでいた。道の駅は夕方6時までの営業だった。

 

 福島第一原子力発電所から20㎞以内の一部地域は昼間のみの帰宅が許される様になっている。漁師をされている案内人のSさんによると、走っている道路から海岸まで見通すことのできる場所では、津波以前は海岸線は松林が続いていたという。今は所々白いシートらしきものが望見できたが、除染したものを収納したフレコンバッグを覆ったものという。道路の周辺は農耕地の跡と見られる原野が広がっている。以前は立派な水田地帯だったというが、避難後は葦やセイタカアワダチソウ、柳などがはびこって原野化してしまった。試験栽培で稲にセシウムが検出されても、東電はその責任は認めないという。

 至る所が整地されてフレコンバッグの仮置場となっている。フレコンバッグの寿命は3年というので、その後もゼネコンの仕事は絶えることなく継続されていくのであろうという。

 


請戸小学校被災跡を見学

津波跡地に残る請戸小学校
津波跡地に残る請戸小学校

 

 原発から10㎞圏内の浪江町には、2014年4月から日中のみ入れるようになったという。

 6号線から海岸通りの方へ入り、川に架かる橋の上で、福島第一原発を遠望。右手の小高い丘が、この先にある請戸小学校の児童・教員ら約100名らが全員避難した場所だという。小学校からは約1㎞、普段から避難場所として訓練などをしていた訳ではないという。道路が車で渋滞していたため、徒歩で移動。中には車イスの児童もいたというので、教員が背負って逃げたのであろう。中世の城郭跡でもあったので公園ではあったようだが、小学校方面から登る道はなかった。

 児童の一人がルートを知っていて、その指示に従って登ったという。避難後は山の中を反対側の6号線に抜け、やってきたトラックに乗せてもらい、町役場にたどり着いた模様である。


 海の方には工場のような建物が見られたが、災害瓦礫仮設焼却施設という。

 フレコンバッグの中身で、焼却できるものは処分するのであろうが、果たして放射能はどうなのであろうか。地図によると、その場所は「マリンパーク」という施設の跡地らしい。それらしい構築物も流されないで残っていたようだ。


 請戸小学校の周囲には多くの人家が建っていたと見られる跡が残っていた。

 津波で破壊された建物や、流されてきた瓦礫は既に撤去されたものであろう。校舎・体育館だけがポツンと残されていた。時計台の時計は3時37分位を指して止まっていた。あの3月11日の3時37分に第一原発で一号機の全交流電源が喪失した時間である。体育館の時計もほぼ同時刻を差していた。電波時計は一つが止まると他も連動して止まってしまうという説明があったようだが、元が止まったというのが原因であろう。

 体育館では約1週間後の卒業式の準備が壇上になされていて、そのままとなっている。


請戸小学校の体育館
請戸小学校の体育館


 体育館入り口左手の外壁には「電源立地促進対策交付金施設」というプレートが取り付けられていた。

 9日の全体会で地域特別報告として「原発災害から住民を守る」と題する講演をしてくれた浪江町長馬場さんも原発事故以前は、当然熱心な原発推進派だったという。

 原発事故の情報は、隣接町であったため県や国から一切もらえず、12日の官房長官による記者会見で初めて知ることとなった。北へ逃げれば大丈夫かと思ったが、風向きが変わって避難先で放射能を浴びることとなる。その時の怒りが、その後の言動を変えることとなったのであろう。


 二階の教室の黒板には「福島がんばれ」などの応援メッセージがびっしり書き込まれている。黒板の下の壁には海水が上がってきたと思われる跡がうっすらと残っていた。最初は捜索活動にこの地に入った自衛隊員や警察官などが部隊名を記し、メッセージも残したようである。その後、ボランティアなどで入った人々が書いていったものという。不心得者がいて、前に書かれてあったものを消して、新しく書き込んだということが新聞にスクープされ問題となった。警察などは一般人には立ち入って欲しくないというのが本音という。

 Sさんはこの日もいわば月命日に当たるため、警察が来て何らかの活動をしている可能性があり、入れてもらえないかも知れないとバスの中で懸念を漏らしていた。到着した時には、幸いに小学校の周辺には工事車輌しかおらず、何の妨害もなく中に入ることができた。

 ところが見学を終えて外に出ようと一階へ降りたところに警察官3名が現れて、立入禁止の所へ入ったことを責めてきた。確かに「無断で立ち入らないで下さい」との立て看板は出ていたが、こっちはきちんと町役場などに届けて許可を得ている。相手を納得させるのに結構時間はかかっていたが、何とか解放してもらえた模様であった。


 小学校を後に来た道を戻り、6号線を越えた浪江町内のモニタリングポスト(放射線量計測器)が置かれている場所で下車。地上1メートルではなく、地上ギリギリ、草むら、山からの流水が集まってくる溝など、どんどん放射線値が上がっていくのが確認された。



鈴木安蔵生家を訪ねる


 南相馬市に戻り、小高区の鈴木安蔵(1904~83)の生家を訪ねる。


南相馬市小高 鈴木安蔵の生家
南相馬市小高 鈴木安蔵の生家

 

 戦後、日本国憲法制定に先駆けて「憲法草案要綱」を書き上げた憲法研究会の中心人物である。

 

 戦前からの自由民権運動の中で誕生した私擬憲法研究から析出された民主政治への潮流が、GHQの憲法草案を通じて現行憲法にも反映されているのではないかと言われる。安蔵の母親の実家がここで、道路に面して林薬局があり、震災まで安蔵の甥に当たる子孫一家が住んでいたらしい。屋根には瓦の先に銅葺きの部分があったり、ガラス戸のガラスは現在入手できない高級なものが使われていたりと、各所に趣向を凝らした建物である。奥には蔵があったが、地震で崩れ、撤去されたようだ。


 隣家との間は仲町共同駐車場となっており、「馬つなぎ場」ともされていた。相馬野馬追に関連したものという。


 宿泊は相馬市の松川浦を見渡すことのできる高台に建つ「なぎさの 夕鶴」。

 目の前には市場があったが、津波で何もなくなっている。翌朝、ラウンジでその時の映像を視聴できたが、あっという間に海水が押し寄せ、建物をさらい、漁船を押し流し転覆させる場面などが生々しく映っていた。のり養殖場は復活しているようだ。



飯館村の現状


 12日(水)は朝8時30分に出発、飯舘村へ向かう。

 山間部の道路周辺には、浜通りと変わらぬ荒れた農地跡とフレコンバッグの仮置場が続く。五段重ねとなっている場所も多かった。ニホンザルの群れやイノシシが逃げることもなく、悠然と出てくることも多いという。


飯館村の放射線量測定器 0.43マイクロシーベルト
飯館村の放射線量測定器 0.43マイクロシーベルト

 飯舘村役場には職員が通いでやって来て仕事をされているようだった。前もって依頼はしていなかったようだが、除染対策課長が出てきて話をしてくれた。


 「除染」という当時、耳慣れない作業のモデルケースはここで始められたという。4月22日に計画的避難区域に指定され、全村民が避難しなければならなくなったが、隣接する特養ホームでは、他で見られた、無理矢理避難させたことで問題が生じることを懸念して、避難がかえって悪い結果をもたらす恐れがある者は、ここに留まって職員が通ってくるという方法で施設を維持したという。避難指示が解除された時に、入所者が戻り施設を再開できるかどうかという不安もあったという。


 村の統廃合の話題も持ち上がったが、それでは村がなくなってしまうことになるので、何とか飯舘村としての復興を目指す方向で頑張っていくこととし、新しい中核地区が計画されているという。駐車場には「いっとき帰宅バス」と書かれたマイクロバスが止まっていた。


 トイレ休憩を予定している道の駅「川俣」は盆花の特売も行われていて混雑が予想されるということで、飯舘村内で3月にオープンしたというコンビニ「セブン・イレブン」(24時間営業ではない)にも立ち寄った。元はJAの売店があり、「飯舘牛」の直売で人気があったという。駐車場のトイレは「ほっと安心寄っトイレ」とネーミングされていた。


 隣の川俣町には村役場を始め、小中学校・幼稚園などが移されている。途中、飯舘小学校の仮校舎を眺めることができたが、他の小学校二校も併設されているようだった。



渡利のさくら保育園見学


 国道349号線から114号線に入り、道の駅「川俣」を出て、福島市渡利の「さくら保育園」を訪ねる。花見山公園への入り口付近であった。


 学童保育の指導員佐藤秀樹さん(著書『あの日からもずっと福島・渡利で子育てしています』2013、かもがわ出版)の案内で園の裏庭に回ると、ちょうど子どもたちは昼食前のプールの時間が終わったところらしく、男女ともに素っ裸で走り回っているところだった。庭は全面砂地になっており、子どもたちが裸足で遊べるようになっている。


 除染した際の「宝もの」はモニタリングポストと鉄棒の間辺りに埋まったままという。原発事故以前は隣の春日神社の石段など、子どもの足腰を鍛えるのにちょうど良い散歩コースだったが、まだ整備ができておらず、登れない。そのため、庭のすべり台の下に盛り土をして、少しでも登り降りができるような工夫をしているという。

 春日神社には「邨(村)社春日神社」と「蠶(蚕)祖神社」の石柱が建っていた。園内は都会では考えられない広い空間が確保されており、しかも板敷きの床が癒やしを与えてくれる。


  園長の斎藤美智子さんからは、調理する素材の放射線量を丸ごと測定できる食品測定器についての説明を受けた。国の予算で購入できる測定器は、食材をみじん切りにしなければならない。それを新しく開発された測定器を購入したものの、国からは補助も出ず全額負担しなければならなかったという。重量もあるが費用も高額であった。

 食材だけではなく、生きたザリガニの測定もでき、保護者はメダカなどを取ってきて、放射線量を測ってみて、問題がなければ喜んで園内で飼育しているという。食材の測定値は玄関で保護者に公開されており、食の安全性は保証されている。


さくら保育園の高額な食品線量計
さくら保育園の高額な食品線量計

 

 国道114号線に戻り、福島市街へ向かう。


 渡利には終戦直前の7月20日、大型爆弾が投下され、少年一人が犠牲となった。テニアン島から飛び立ったB29による模擬原爆「パンプキン」であったことが後で分かったという。模擬原爆はこの日、富山・長岡・東京と合わせて10発投下されたという。8月9日に長崎に投下される「ファットマン」を模したもので、その投下訓練、目標地点への目視による投下、投下後の被爆を避けるための急旋回などが目的であった。それがため、目視不能な場合など、帰途、特に軍事施設などに関係なく投下がなされ、一般人の犠牲者を出しもしたという。


 阿武隈川を渡利大橋で渡り市街地へ入り、JR各線を越えて昼食会場の「岩代屋敷大王」(福島市下野寺字薬師堂後4)に至る。

 


果樹農園と放射線測定の現状


 午後は当初予定していた桃農園の見学が、今年は出来が早まり、今かき入れ時で、見学者を受け入れる余裕はないということで、梨農園に変更したという。

 

 福島市笹木野字新林18の阿部果樹園を訪ねた。

 化学肥料を使用しない有機農法で、消毒も50%に控えているという。梨の他にも、桃・りんご・ブルーベリー・キウイを栽培していると看板に掲げられていた。

 園主の話によると、ちょうど今日、桃の出荷が終わったところという。残っていた箱の品種には「まどか」とあった。梨は「二十世紀」を始め、洋なしも含め数種類栽培しているようだ。この辺りは平坦地としか感じられないが、大きな扇状地の一角で、水はけは良く果樹栽培に適しているという。


 最後の見学地は、「吾妻の駅ここら JA新福島農産物直販所」の放射線測定施設「庭塚モニタリングセンター」であった。7台の測定器で見学用に7パターンの測定結果を出してくれていた。その7台はベラルーシ製。別の使用していない7台はアメリカ製で、高額な割には性能は劣るという。

 福島の農産物は放射線量をすべて確認して、安全なものしか市場に出ないように管理されているので、他県のものより安全と断言できるという。


JA所有の国から与えられた食品線量計
JA所有の国から与えられた食品線量計

 予定された4時半頃、JR福島駅西口に到着、解散。

 

 前年の福島県南コースに引き続いて、今回は北コースに参加することができた。

 一年の間に立入禁止が解除されたりした地域もあって、復興への前進が見られたような気もするが、いかに除染が進められ、放射線量が低下してきたとはいえ、被害を受け、避難を余儀なくされている人々の気持ちや、政府や東電の被災地・被災者への対応など、本質的な問題は何ら変わっていない。

 

 福島第一原発の現状がどうなっているのか、除染によって生じた放射能汚染物質の処理がどうなるのか、そういう問題がはっきりしない中で、11日に鹿児島の九州電力川内原発一号機が再稼働されてしまった。反対の声も強い中で、なぜ11日だったのか。電力会社・行政当局には原発被害者への配慮も、何の反省もないのか、と言われても仕方ないであろう。


 復興自体も決して順調に進んでいるとは言えない。

 被災者への補償についても様々な問題が残っている。

 オリンピックで浮かれている時ではない、それにかける物的・人的資源をもっと被災地復興に当てる方が先ではないのか、という批判も強い。ましてや国民の命を守るためと強弁して、自らアメリカの戦争に巻き込まれようとする安保法案など狂気の沙汰である。


(神奈歴 T・I 2015.8.15記)