山田先生講演「登戸研究所と中野学校」


地域に学ぶ集い 

アジア太平洋戦争中の日本軍謀略―登戸研究所と中野学校―

              明大平和教育登戸研究所資料館館長・歴教協委員長 山田朗さん

山田朗さん
山田朗さん

 

明治大学生田キャンパスは、かつての陸軍登戸研究所、中野キャンパスは、かつての陸軍中野学校だった。両者を結ぶキーワードは「秘密戦」で、登戸は秘密戦のためのモノづくり、中野学校はヒトづくりの中心だ。

 

 「秘密戦」は戦争には必ず付随し、歴史に記録されない裏側の戦争であるが、平時においても密かに行われている水面下の戦争だ。勝っても負けても戦果は発表しない。要素は、防諜(秘密が漏れるのを防ぐ)・諜報(秘密を探って集める)・謀略(相手の国をかく乱する)・宣伝の四つで、非合法のスパイ活動だから、つかまっても捕虜の待遇を受けられない。

1.秘密戦における登戸研究所と中野学校の役割

 

陸軍登戸研究所は、秘密戦のための兵器や資材の専門開発機関。1927の陸軍科学研究所秘密戦資材研究室の設置に始まる。

1937年に登戸実験場として高台の現在地に移ったのは、電波兵器を研究する目的だった。小田急線で新宿からも来やすいということもあった。日中戦争の泥沼化に伴い、1939年からは、第一科で電波兵器、第二科で青酸二トリールなどの毒物・薬物・生物化学兵器・スパイ用品、第三科で偽札作り等が増設された。


対米英妨害の必要性もあり、1942年に第九陸軍技術研究所(通称登研)となり、第一科で風船爆弾研究・開発を始め、約1万発製造、9300個放球した。米本土に到着したのは約1千発。1945年には本土決戦にそなえて長野県に分散移転した。

 

会場いっぱいの参加者
会場いっぱいの参加者

 

陸軍中野学校は、秘密戦要員の専門育成機関として、1938年に後方勤務要員養成所として設置され、翌年中野に移転。対米英関係の緊張に伴い1940年に陸軍中野学校と改称した。終戦までの間に約2

千人が卒業した。


 秘密戦を担ったのは、①「登戸研究所」と「中野学校」 ②関東軍情報部(1940年創設)では、登戸研究所で開発した軍用犬追跡防避剤(え号剤=悦楽させて吠えなくさせる薬?)の実験もしていた。 ③憲兵隊で、秘密戦のためのテキストもあった。



2.日本軍の秘密戦の歴史

 

日清・日露戦争期に遡る。石光真清は、洗濯屋や写真屋などになりすましてロシア軍をスパイしていた明石元二郎はヨーロッパの新聞からロシア情報を得ていた。日中戦争期(1937年~)には、対中国のほかに対欧米も活発になった。193711月大本営謀略課も設置され、そこが「登戸研究所」や「中野学校」を実質的に指揮をした。

 

第二次世界大戦では、在米日系人にまぎれこませてスパイを送り込んだが、米国の日系人隔離政策により誤算に終わった。末期には、本土決戦準備のため研究機関を疎開し、遊撃戦研究に重点を置いたり、後方撹乱・連絡のため、ビルマやフィリピン、中国などに残置工作員を配置したりした。



3.登戸研究所における秘密戦兵器・資材の開発


  1. 第一科/物理学を基礎とする兵器の開発で、電波兵器(怪力光線)・スパイ用無線機・風船爆弾
  2. 第二科/科学を基礎とする兵器の開発で、中野学校と密接に関係している。対人用毒物や薬物(青酸二トリールなど)・スパイ用の特殊カメラや特殊インク、変装用品・対動植物兵器など
  3. 第三科/印刷技術を基礎とした資材開発で、偽札の製造・偽パスポート製造など
  4. 第四科/兵器量産工場/第一・第二科研究品の製造・補給・使用指導など



4.アジア太平洋戦争末期の秘密戦

石井式濾過器
石井式濾過器

 

 対インド工作や日本軍後退に対応して、後方の攪乱・連絡のためにビルマやフィリピン、中国、沖縄などに残置工作員をおいた。


 戦争・秘密戦の記憶を残すことは重要である。また、明大生田・中野キャンパスで戦争を語り継ぐことの意義は大きい。登戸研究所資料館は今後も充実を図っていく。

 

 

(記録 神奈歴N)